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今更見た「君の名は」が想像を遥かに超えて面白かったので感想を書いてみる(もちろんネタバレ)

公開時には、絶対泣かない、確実に好きじゃない、という謎の脅迫観念にかられて意地でも観に行かなかった「君の名は」ですが、今更ながら観賞してみたところ想像を遥かに超えて面白かったので、個人的感想を書いてみます。盛大にネタバレするのでご注意ください!

  

どういうところが面白かったのか…というと、なんとなく皆様と見解がずれている気がするのですが、私はこの作品から漂う「ホラー要素」に強く惹かれました。

 

時空を超えたり、体が入れ替わっちゃったり、ちょっと恋心抱いちゃったり、引き裂かれたりしながら、最後に2人が巡り会う、超正統派の「boy meets girl♡」ストーリーですが、2人がラストシーンで出会ったとき、なんとなく薄ら寒い気持ちになりませんでしたか?私は凄く怖かったです。

 

「あ…瀧君みつかっちゃった…」

 

と思いました。

 

ラストシーンだけではありません、瀧君の携帯の文字が消えて行くとき、瀧君がご神体のある山で目覚めたとき、記憶が改ざんされているとき、そのほか、色々なところに、私は、とても、「ホラー」を感じました。

 

まずはこの「君の名は」、裏側にある設定は以下の通りだそうです。

 

「糸守は1200年毎に彗星が落下してくる不思議な土地

宮水一族は女しか生まれない一族で入れ替わりの能力を使って婿を得て巫女の血を絶やさないようにしてる

宮水一族は1200年毎に降り注ぐ彗星から人々を守る為に存在してる

だから彗星のことを予知出来るように自分と時間軸のズレた人間と入れ替わるようになっている」

 

 

つまりですね、あくまで起点はすべて三葉なのです。三葉であり、糸守町であり、宮水家の意思なわけです。

この話はですね、双方が思い合っているわけではないのです、両方が引き寄せ合った訳ではなく、起点はすべて三葉であり、瀧君は三葉によって選ばれたのであり、瀧君は三葉(と糸守町の人々)を生かす為に糸で操られたコマなわけです。

 

先ほどホラーを感じた要素は、瀧君の携帯の文字が消えて行くとき、(ご神体のある)山で目覚めたとき、と書きましたが、このホラーを感じた要素はどちらも瀧君サイドからの出来事です。飛騨旅行だって周りの人から見たら「頭おかしくなったの?」状態だし、そもそもこの入れ替わり、メリットは三葉にしかなく、瀧君サイドは「頭おかしくなったの?」的デメリットばかりです。後半はひたすら「巫女としての三葉の傀儡として瀧君が奔走する物語」です。

 

それがひたすらに美しく描かれ、ラスト2人は出会うわけです。

 

「時間軸をずらして生き返すなんて反則だ」とか、

「出会わずに終わった方が美しかった」とか、

「大衆に迎合してハッピーエンドにしやがって」とか、

「出会えて感動♡やっぱり2人は運命の2人だね♡」とか、

それはもう色んな意見をみましたが、

個人的にはそれは違うのではないかと。

 

だって、瀧君「コマ」ですから!!巫女に寄って糸で絡めとられた傀儡!

入れ替わりに全然メリットなかったし、先輩との恋も実らなかったし、変な子扱いされちゃったし。

 

ラストはね、もう、

 

「あ…瀧君みつかっちゃった…」

 

と思いましたよ。笑

巫女に、みつかっちゃった…と。

 

怖っ!

 

 

…と。

…どうでしょう?少しは私の感じたホラー的要素がお分かりいただけたでしょうか?

 

で、ですね、更にいうと、これは「誰でもよかったんだろうな」と。

「瀧君である必然税がわからない」という感想もみかけましたが、むしろ必然性なんて無い。これはたまたま瀧君でうまくいったから瀧君なのだろうなと。この映画はたまたま成功した「瀧君エンド」を切り取っただけだと思うわけです。

 

つまり、三葉は平行世界、もしくは記憶がないだけで不特定多数の人と「入れ替わり」をしていて、瀧君にとっては三葉は1人ですが、三葉にとっては何人もいるうちの1人なのだろうなーと思ったのです。で、この映画はたまたま成功した「瀧君エンド」を切り取っただけなのではないでしょうか。なので三葉にとっての「君の名は」と瀧君にとっての「君の名は」は実は意味が違います。瀧君は巫女に翻弄されて記憶を無くしているだけですが、三葉にとっては本当に、one of them の中の、「えーっと、君の名前、瀧君でいいんだよね?」なのではないでしょうか。三葉は終盤「君の名は「瀧君」!」と確かめるように何度も叫びます。三葉にとっては「何人もいる傀儡の中で、ようやく成功してくれた、君の名前は「瀧君」、だよね?ご苦労であった!君の名前は覚えておこう!」という感覚が(無自覚に)あるのではないでしょうか。

 

そんな感じでラストシーンを見ると、

いや…瀧君ただのコマやん…とか、

いや、誰でもよかったんやろ…瀧君で何人目や…

とか薄ら寒い気持ちになってきませんか?

 

更につきつめると、「三葉的には誰でもよかった」でもないわけです。「糸守町的には」ですね。三葉もまた糸守町ないしは宮水家の遺伝子によって動かされ、誰かに体を貸す傀儡な訳です。何人もの人々にその若い体を貸して、糸守町を救う手助けをさせないといけないわけですから、むしろ「体を売って」いるようなものです。

 

で、最後2人は出会う。

 

これも糸守町にとっては、もはや、

「傀儡と巫女、ご苦労であった。もう用済みだから、2人はくっついちゃえば〜?」くらいの運命操作に見えてきませんか?

 

糸で操られた傀儡と、体を売った巫女が「恋をした」という幻想を、何か大いなるものによって植え付けられてしまった物語。

 

 

でもですね、更にいうならば、「運命」ってこんなもんなのだろうなと思ったのです。

 

 

瀧君は三葉に利用された傀儡ですが、その自覚はありません。三葉だって遺伝子に操られながら体を売らされていた訳です。そして、お互い名前も知らない人と、なにか大いなる意思によって恋に落とされる。

でも、それが運命じゃないかというと、そんなことはない。運命の出会いってそんなものなのではないかなと。

 

勘違いと、打算と、一方通行と、思い込みと、記憶も改ざんされて、遺伝子に利用されて、そんな色んなことが組み合わさって、運命の「boy meets girl」が発生するのだと。そういう物語なのではないかと思いました。

 

 

 

 

…以上が私の見解なのですが、 ネットで感想や考察をさらってみたのですが、ヒットしすぎたせいでしょうか、ポニョやシンゴジラのように眼から鱗が落ちるような素晴らしい考察がネット上に見つかりません。どうぞおすすめがあったら教えてください。

 

 

君の名は。

君の名は。

 

 

 追記:

3年のタイムラグに気づかないなんて馬鹿じゃない?という感想を見かけますが、これはまったくそういう次元の話ではないと思っています。瀧君も三葉も記憶を「大いなる意志」みたいなものによって操作されていますし、お互いの体に入っている時のことは、鮮明には覚えていないと思われます。そもそも3年のタイムラグどころの話ではなく、瀧君は当然「糸守」の存在はニュースで知っているはずであり、三葉の住んでいる場所が糸守であることくらいはわかるはずです。それがわからないということは、瀧君にはかなりの記憶の操作が成されているのでしょう。起きるときに泣いている時には、その秘密に触れて、かつ、その記憶を消されてしまった時なのではないでしょうか。

 

瀧君という傀儡に与えられた使命は「糸守に実際に行き、ご神体のお酒を飲むこと」。それをなした時に、傀儡は巫女と会って、彗星の危機を告げる資格を得るのだと思われます。

 

(…しかしなんでそんなまだるっこしいやりかたにしたんでしょうね)

 

 

追記2:

さらに言えば、この話は「就活に疲れた無い内定のダメな大学生」と、「故郷を災害で無くして東京で消耗しているOL(尚地元の唯一の幼馴染たちは結婚)」という、「東京に消耗している」2人の出会いに「もしも運命を求めるのならば?」という壮大な妄想なのではないでしょうかね。