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銀魂によせて

私がジャンプを読むのを辞めたのは、確か封神演義が連載終了したときだった。

 

その後のジャンプ連載漫画は、有名どころのみBOOK OFFで立ち読みし、気に入れば書店で購入というスタンスでいた。そんな私が非常に久しぶりに、有名どころではなく、立ち読みすることもなく、コミックスの第1巻を買った漫画、それが銀魂だった。

 

ちなみに当時銀魂はジャンプ打ち切りレースの本名馬であり、第1巻の初版は少なめに刷ったところ、想定外に売れたため入手困難になったというエピソードは有名だ。

 

なぜ私が銀魂を買おうと思ったのかというと、私は非常に安易な史実幕末ファンであり、特に「新撰組」に関する小説、漫画は一応チェックするようにしているからである。

この銀魂に登場する、「真撰組」の隊服は、有名な土方歳三の洋装写真をもとにデザインされていると考えられる。洋装、短髪ということで銀魂内の土方十四郎のビジュアルは、かなり史実の土方歳三のイメージと近い。この、史実においては土方歳三しか着ることが無かった「洋装」を、近藤が、沖田が着て、そして彼らもまた短髪にしていることに、私はなんだかロマンを感じたのである。

 

銀魂の1巻を読んだ感想は、非常に失礼ながら、よくできた同人誌みたいだな。というものだった。それはクオリティー的な意味ではなく、歴史上の人物達の、非常に良く出来た萌え設定による、幕末パロディ2次創作を読んでいる気持ちになったのだ。登場する歴史上の登場人物達がみな、より「萌える」設定を付随して登場し、ゆるやかに歴史上の出来事とリンクして物語が進行している。そして特にフューチャーされているのが、高杉、桂、吉田松陰新撰組という、幕末の有名どころばかり。

 

正直なところ、私のような薄い幕末ファンであれば、誰でも銀魂には萌えることができるだろう。でも、決してそれだけでは魅力が銀魂にはあると思う。それが何なのか私にはうまく説明できないのだが、このたび久々に銀魂56-59巻を購入し、なんとなく感じるものがあった。空知先生は、幕末パロディ2次創作において、ものすごく難しいことをやろうとしているのではないか?と思ったのである。

 

 

まず先にも説明したが、この銀魂の世界では、ギャグパートとシリアスパートをいったりきたりしながら、ゆるやかに史実に呼応した事件がおこり、時間が流れていく。

そして高杉、桂、吉田松陰新撰組という、幕末の有名どころをフューチャーした、幕末パロディ2次創作である以上、この漫画の行き着く先は、やはり「明治維新」であると考えられるのだ。するとオリジナルパートである万屋ファミリーをのぞき、この漫画で生き残れる歴史上の人物は「桂」だけという恐ろしい前提が、この銀魂の世界にはあるのだ。

 

 

これ、人情ギャグ漫画だから、空知先生そこまで考えていないから!

 

 

と、思う方もいらっしゃるでしょうが、私は空知先生とはかなりきっちり史実とのかねあいを考えている方だと思う。

 

 

例えばそれを逆の意味で裏付けしたのは、「ミツバ」の存在だ。ミツバは沖田総悟の姉として何の伏線もなく突然登場し、病で死んでいった。だが史実では病で倒れるのは沖田自身であり、姉のみつは病で倒れない。ミツバは、史実では夭折する沖田の身代わりになり、銀魂の世界において死んでいったと考えられるのだ。

このエピソードから、空知先生は、史実で死ぬ人が死なないためには、身代わりが必要だと考えているくらい、なるべく史実に誠実であるべきだと考えていることが読み取れる。とすると、この平和な銀魂ワールドが、一気に不吉な世界に思えてくるのだ。

 

そんなわけで私は割と「この人達、みんな死んじゃうんだ…」と薄ら寒い気持ちで銀魂を読んでいた。これは「あまちゃん」の世界でいつか地震がおこると知っていながら見ていた気持ちと似ている。

 

 

で、このたび銀魂では、56巻から将軍暗殺編が開始した。全パートが終わったらまとめて読もうと思っていたのだけど、どーにも気になってしまって買ってしまった。

 

そして読みながら「ついに銀魂では、歴史の分岐が始まったようである」という事実に、燃えたぎってしまった。

封神演義でいうと、ついに歴史の道しるべから外れた世界になってきたのである。

 

史実で考えると現在は徳川慶喜就任の1866年の12月。1867年の4月には高杉は結核で死に、同年10月大政奉還、11月坂本龍馬暗殺、翌年戊辰戦争開始、近藤が斬首、沖田が結核で死に、1868年には土方が戊辰戦争で死亡。と、怒濤の大虐殺タイムがそろそろはじまるのである。

 

 

とにかくそろそろ史実から乖離させないと、高杉が血を吐いて死んでしまう!という状況で、歴史の分岐が明確に始まったと考えるシーンは、「近藤が、攘夷志士を手を組む事を決意する」シーンだ。つまり59巻でヅラが近藤に共闘を呼びかけるシーン。そのシーンは、1ページにアップの人物で2コマという、銀魂にしては非常に珍しい、シンプルな構成だ。これは大きく史実を逸脱したシーンであり、且つ、このシーンがものすごく重要なシーンであると空知先生自身が考えているからではないだろうか?

 

そして高杉と銀時の戦いの後の朧の「まだ天に抗うか」「八咫烏が告げし天啓」という言葉は、この世界には天=史実があり、そこからの乖離を暗示している 。また、この将軍暗殺編において、歴史上のキャラクターの命を救い、発破をかけるのはオリジナルキャラクターの神威や神楽、そして銀時である。

 

また、今回のエピソードにおいて沖田が大きな影響力を持っているのも印象的だ。

実は先に述べたミツバのエピソードにおいて、私はどうして空知先生が、わざわざ突然ミツバを殺してまで沖田を生かすことにしたのか疑問だった。だが今回のエピソードを読み、ここで近藤と土方を救うために沖田は生かされていたのだな、と感じた。近藤は処刑され、沖田は病に倒れ、土方は一人戦い続ける、これが史実だ。沖田を生かす事で、本来辿るはずだった運命から真選組を、土方を、近藤を救おうとしているのではないだろうか?す、救ってくれるよね?まあとにかく「沖田」は「病で死ぬ」という非常に有名な史実に沿わないことにより、真選組新撰組と同じ運命はたどらないことが暗示されていたのではないだろうか?

 

あとは個人的には、この将軍暗殺編では20代以上の大人達、つまり土方、近藤、銀時がしめっぽく史実に負けそうになっているのに対し、沖田や神楽、神威といった少年少女達が運命に立ち向かっているのは、非常に少年ジャンプっぽくて良いと思いました。笑

 

 

 

ともあれ、このような歴史パロディ物において、歴史の分岐をさせるのって、ものすごく覚悟がいることだと思う。そこには必然性が必要だし、分岐させるからには、ある程度の救済が無ければならない。空知先生は、この銀魂における明治維新をどのように成し遂げようと考えているのだろうか?明治維新の前の大きな歴史の分岐点が「大政奉還」、銀魂の世界においては、天導衆を司る「天子様」が権力をすべて掌握するわけだ。なんとなくこれが銀魂のクライマックスになるような気がする。空知先生は、この幕末パロディ2次創作において、これからものすごく難しいことをやろうとしているのではないでしょうか?

 

 

 

***

と、ここから下は普通の感想ですが、高杉と銀時の戦いのシーンが本当にすばらしく、すごい漫画になったものだと思いました。高杉、銀時、桂、松陽の因縁を空知先生はおそらく物語の初盤から温めていたのでしょうが、そう思って読み返すと何もかもが切ない。ヅラと銀時も、ずっとこの過去を背負っていたかと思うと切ないじゃないか!

2巻で、ヅラが新八と神楽を背負う銀時に「今度は離すなよ」(すみません、これうろ覚えです)というニュアンスの言葉をかけるシーンがあるんですが、これってつまり「かつては銀時が自ら仲間との繋がりを切った」「それを桂も受け入れている」ということで、その事実に少々疑問を感じていました。銀時が自発的にそんなことをするだろうか?と思ったし、それを桂は受け入れるのだろうか?と思ったのです。でも、この因縁があるなら全てが納得で、紅桜編も全ての台詞が切なく聞こえる。

そして、実は、銀魂って、「銀時の再生の物語」なのだなぁとしみじみ思いました。銀さんは強くて、かっこよくて、大人の余裕に溢れているけど、実は1巻の時点の銀さんは「桂」と「高杉」ってとてつもなく大切な存在の魂を守る事ができずに、絶望していて、負け犬みたいな気持ちだったんじゃないかなー。そしてそれを歌舞伎町の仲間に支えられながら、まずは桂を、そして長い時間をかけて高杉取り戻す…そういう物語だったのかと。

 

そして銀時、高杉、桂、松陽と、真選組の3人が対比している構成も素晴らしい。高杉、銀時の因縁を58巻まで全く出さなかったのは、この真選組のエピソードと対比させるためなのだと思うとなんだか胸熱である。銀時は土方が、いつか自分と同じ道をたどるかもしれないと察し、かまい、気にしていたのだろうと思うと、思うと!!という感じである。