東京BABYLON 考
思うところがあってCLAMPの「東京BABYLON」を15年振りくらいに読み返して、改めて感じたことがあるので書き留めておきたい。
CLAMPと言えば「カードキャプターさくら」や「ちょびっつ」、近年だと「xxxHOLiC」が代表作と称されるのだろうか。
でも、私が個人的に好きで、何度も読み返しているCLAMP作品は、断然「東京BABYLON」だ。
1990年(!)に連載が始まったこの作品、ギャグセンスや取り扱われるグッズ(ポケ別やダイヤルQ2)にこそ時代は感じるけど、現代の東京にあてはめても全く違和感のない問題が取り扱われている。むしろ26年たっても、この漫画で取り上げられている題材が解決していないことに驚かされる。東京って、全く進化していないんだな。
少々読みずらい部分もあるかもしれないけれど、全7巻で完結しているため、ぜひオススメしたい作品である。
メインのキャラクターは恐ろしく少なく、陰陽師一族の若き末裔の昴流とその双子の姉北都、そして動物病院を営むが実は暗殺集団「桜塚護」の当主星史郎の3人のみで作品は構成されている。
設定だけで中2病の香りがビシバシするが、読めば分かるがこれは全ての中2病患者達をなぎ倒す(そして、優しく現実に向かわせる)作品である。設定の前提として星史郎(男)が昴流(男)を「好き」という一見BLをにおわせる設定があるが、この「好き」という設定もくせ者なので、ぜひその設定にくじけずに読み進めてほしい。壮絶なラストには考えさせられるはずだ。
直木賞作家の辻村深月さんも「価値観を変えた作品」として紹介していた。
CLAMPという集団の狂気と美意識がぎっしりと詰まった作品だと思っている。
以下、壮絶なネタばれ注意
今回15年ぶりに読み返して驚いたのだが、ラストシーンで受ける印象がまるで違っていました。
整理しますが、この話は星史郎が昴流に対して一方的にしかけた「賭け」が前提になっています。
賭けの内容は「1年間一緒に暮らしてみて、星史郎が昴流を好きになったら、昴流の勝ち(=星史郎は昴流を殺さない)。好きにならなかったら星史郎の勝ち(=星史郎は昴流を殺す)」というものです。
私は中学生で初めてこの漫画を読み終わったとき、「星史郎は昴流を好きになったのだな」と思いました。
ところが、大人になって改めて読むと、「星史郎は昴流を好きにならなかったのだな」と思ったのです。
大人になるって、怖い…と感じるこの価値観の転換だが、後者も決して否定的な見解ではないので、この2パターンにおいて、考察をしてみます。
1、「好き」だったパターン
まず、中学生の私が「星史郎は昴流を好きだったのだな」と思った根拠は、「結局星史郎が昴流を殺さなかったから」です。「桜塚護」である以上必ず星史郎は昴流を殺さなくてはならない。でも殺すチャンスがあったのに昴流を殺さなかったのは、「結局は昴流を好きになったから、昴流は賭けに買ったのだ」と感じたのです。賭けの内容を鑑みると中学生にしては論理的です。笑
で、昴流は殺さなかったのに北都をなぜ殺したか…というと、「星史郎は昴流を好きになった場合(昴流が賭けに勝った場合)は、「昴流に殺されよう」と思っていたのではないかと思うのです。
昴流が星史郎を殺すほどの気持ちになるには北都を殺すしか無い。だから殺した。
というわけであのラストシーンは壮絶な「両思い」パターンだという解釈です。
2、好きにならなかったパターン
大人になって読み返して、台詞通り受け取ると、やはり星史郎さんは、ラストシーンの時点まで「昴流を好きになれなかった」のではないかなと感じました。そしてそんな自分にいらだちを感じているようにも見える。腕を折ったりして最後の最後まで自分を試しているけど、どうしても好きになれない。だから殺す事にした。…というように見えるのです。
でもこのたび読み終えて感じたのだけど、この星史郎が感じようとした「好き」の感情の定義がそもそも間違えていたのではないかなと思います。
星史郎の「好き」って、なんだったのでしょう?
星史郎は自分の定義する「好き」という感情に至らなかっただけで、星史郎の中では昴流は「特別」であったのは間違いないと思うのです。そもそも賭けをする時点で特別だし、「好き」と思おうと努力する時点で特別。星史郎が定義する「好き」という感情ではないけれど、「特別」ではある。という結論にどこかで星史郎は感づいていたのではないだろうか。それで、星史郎は昴流を殺さない事にした。…と今回感じたのです。
…さて、この「東京BABYLON」の昴流と星史郎のラストは、「X」の16巻へと引き継がれていきますが、この2パターンにおいて、X16巻における星史郎の最期の台詞の考察に移ります。
まず、北都が仕掛けた術は「自分と同じ方法で昴流を殺そうとしたら、その術がそのまま自分に返って来る」というものです。
そして、その術を知りながら星史郎は昴流を殺そうとした…つまり昴流に殺されようとしたわけです。
実は数々の考察班の仕事により、この最期の台詞は以下の2つではないかと考えられています。
「僕は君を殺しません」か「僕は君を殺します」
です。
考えてみればこれは賭けの内容を考えると当然の台詞ですよね?
最期に星史郎は賭けの結果を宣言したわけです。
BABYLONの中でも出て来る台詞です。
で、前述の「好きだったパターン」
この場合だったら「僕は君を殺しません」が正解です。
昴流は賭けに勝った訳で、これは星史郎の敗北宣言であり、最期の告白なわけです。
では「好きじゃなかったパターン」
この場合の台詞は
「僕は君を殺します」
です。
いやいや、殺されてるの星史郎さんじゃないか!…と思うかもしれません。
でもその後の展開を考えると、ここで星史郎さんは物理的に殺されているんだけど、精神的な「昴流」はここで死ぬ訳です。星史郎を殺した罪と桜塚護を背負わされ、綺麗な心だった昴流は殺されます。
でもこれは、決して星史郎が賭けに勝った(=好きにならなかった)わけではないと思うのです。「殺します」と言いながら、「殺されている」…これは賭けの内容を考えると裏腹です。「昴流の綺麗な心を殺して自分は殺される」その選択からは、なんというか、恐ろしいまでの執着と愛情を感じませんか?
それを幸せと呼ぶのか愛情と呼ぶのか「好き」と呼ぶのかはわからないけども、個人的には最期の台詞は「僕は君を殺します」が一番綺麗なのではないかと思います。
…で、考察がいったりきたりするのですが、最後におまけで「星史郎にとっての好き」ってなんだったのか?という考察です。
これは完全に妄想なんですが。
前述した通り、星史郎はバビロンの決別のシーンにおいても尚、「好き」がわからなかったのではないかと思います。これと呼応するのが、昴流の「好き」です。
実は昴流も好きという感情の認識が遅く、バビロンにおいて昴流は最後の最後に星史郎が「好き」と気付きます。
昴流の「好き」は「嫌われるのが怖い」という感情の認識でした。
これは割と印象的で、昴流の好きは自発的なものではないのです。「相手に何かを望む」ことが彼にとっては「好き」なのです。それを彼は北都の言葉によって気付くのです。
「誰にでも優しい昴流」と「人と物の区別がつかない星史郎」実はある意味では似たもの同士の彼らなので、星史郎の「好き」も、実は彼が当初思っていたような自発的な感情ではなく、「相手に何かを望む気持ち」なのではないでしょうか?
そして、それを気付かせたのは、やはり北都なのではないでしょうか?
北都の最後の術は、星史郎の「好き」を気付かせる捨て身の発破だったのではないかという考察です。
そう、「自分と同じ方法で昴流を殺そうとしたら、その術がそのまま自分に返って来る」という術をかけられた星史郎は、「自分が昴流を殺そうとしたら、昴流に殺されることができる」ようになったわけです。その時星史郎は、
「昴流に殺されたい」
と思ったのではないでしょうか?
そして、それを北都は確信していたのではないでしょうか。
昴流も星史郎も、他人に対して何かを望んだことは一度もなかったはずです。相手に何かを望むその感情の自覚こそが、「好き」ということだと気付いたのではないでしょうか。
昴流の好きは、「相手に嫌われたくない」という感情の自覚で、星史郎の好きは「相手に殺されたい」という感情の自覚。この二人がもう少しお互いの感情を早く自覚していれば、違う結末になった…かもしれないですね。