2.5じげん

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君はドラゴンボール

私はこれから「ドラゴンボールSMAP」と「ワンピースと嵐」について書く。

始めに断っておくが、私は全部好きだ。全部好きで、応援している。

でも、私はこれからドラゴンボールSMAP」と「ワンピースと嵐」を少々比較しようとしている。そしてこれも始めに断っておくが、優劣をつける意味なんてないけれど、私はどちらかと言えば「ドラゴンボールSMAP」の方が好きだ。

この前提において、すでに不快感を覚える方は、ここでそっと回れ右してほしい。

 

 

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推理小説おすすめ6選

私の読書体験は宮部みゆきの「レベル7」からはじまる。

 

レベル7(セブン) (新潮文庫)

レベル7(セブン) (新潮文庫)

 

 おそらく読んだのは小学校の高学年の頃だっただろうか?それはもう、頭をがつんと殴られたような衝撃を今でも覚えている。その衝撃とは、「こんなに面白いものがこの世にあるのか」という衝撃だ。今まで読んできた本とも、漫画とも、ドラマとも、映画とも違う衝撃、そう、初めて読む「推理小説」の面白さに心を奪われたのである。

 

今でもたまに読み返すが、今になって読むと、正直なところ著者の他の作品に比べ、特段優れているとは言えない。でも、「これが本を読むという事なのか」と誤解させてくれ、今日にいたるまで推理小説を愛するきっかけとなった大切な1冊である。

 

その後小学生らしく、はやみねかおる氏の夢水清志郎シリーズ

 

そして五人がいなくなる 名探偵夢水清志郎事件ノ-ト (講談社青い鳥文庫)

そして五人がいなくなる 名探偵夢水清志郎事件ノ-ト (講談社青い鳥文庫)

 

 

中学生になったら恩田陸氏(推理小説作家だと思っている。)

 

六番目の小夜子 (新潮文庫)

六番目の小夜子 (新潮文庫)

 

 

高校生になったら若竹七海

 

ヴィラ・マグノリアの殺人 (光文社文庫)

ヴィラ・マグノリアの殺人 (光文社文庫)

 

 

大学生になったら北村薫氏の「わたし」シリーズ

 

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

 

 

など、もちろん男性も楽しめるだろうが、女性にとって親しみやすい推理小説作品を楽しんできた。

 

中でも特に思い入れがあるのが西澤保彦

 

麦酒の家の冒険 (講談社文庫)

麦酒の家の冒険 (講談社文庫)

 

 

先日衝動的に再読したくなり、アマゾンで大量購入。至福の読書体験でした。

 

特に匠千暁シリーズは、何回読んだかわからぬほど。「いつか実写化されたら」とふとしたときにキャストを考えています。

 

 

推理小説ってなんなのだろう。と思う。

 

きっと読まずに一生を終えていく人も多いのだろうな。

私にとって「本」とは「推理小説」のことなのです。

 

「謎」って、日常の中にはあまりありませんよね?

「本」だからこそ可能なトリック、舞台設定で、非日常の「謎」の世界に導いてくれる。そんな推理小説が読みたいのだ。

 

 

 推理小説おすすめ6選でした

 

銀魂によせて

私がジャンプを読むのを辞めたのは、確か封神演義が連載終了したときだった。

 

その後のジャンプ連載漫画は、有名どころのみBOOK OFFで立ち読みし、気に入れば書店で購入というスタンスでいた。そんな私が非常に久しぶりに、有名どころではなく、立ち読みすることもなく、コミックスの第1巻を買った漫画、それが銀魂だった。

 

ちなみに当時銀魂はジャンプ打ち切りレースの本名馬であり、第1巻の初版は少なめに刷ったところ、想定外に売れたため入手困難になったというエピソードは有名だ。

 

なぜ私が銀魂を買おうと思ったのかというと、私は非常に安易な史実幕末ファンであり、特に「新撰組」に関する小説、漫画は一応チェックするようにしているからである。

この銀魂に登場する、「真撰組」の隊服は、有名な土方歳三の洋装写真をもとにデザインされていると考えられる。洋装、短髪ということで銀魂内の土方十四郎のビジュアルは、かなり史実の土方歳三のイメージと近い。この、史実においては土方歳三しか着ることが無かった「洋装」を、近藤が、沖田が着て、そして彼らもまた短髪にしていることに、私はなんだかロマンを感じたのである。

 

銀魂の1巻を読んだ感想は、非常に失礼ながら、よくできた同人誌みたいだな。というものだった。それはクオリティー的な意味ではなく、歴史上の人物達の、非常に良く出来た萌え設定による、幕末パロディ2次創作を読んでいる気持ちになったのだ。登場する歴史上の登場人物達がみな、より「萌える」設定を付随して登場し、ゆるやかに歴史上の出来事とリンクして物語が進行している。そして特にフューチャーされているのが、高杉、桂、吉田松陰新撰組という、幕末の有名どころばかり。

 

正直なところ、私のような薄い幕末ファンであれば、誰でも銀魂には萌えることができるだろう。でも、決してそれだけでは魅力が銀魂にはあると思う。それが何なのか私にはうまく説明できないのだが、このたび久々に銀魂56-59巻を購入し、なんとなく感じるものがあった。空知先生は、幕末パロディ2次創作において、ものすごく難しいことをやろうとしているのではないか?と思ったのである。

 

 

まず先にも説明したが、この銀魂の世界では、ギャグパートとシリアスパートをいったりきたりしながら、ゆるやかに史実に呼応した事件がおこり、時間が流れていく。

そして高杉、桂、吉田松陰新撰組という、幕末の有名どころをフューチャーした、幕末パロディ2次創作である以上、この漫画の行き着く先は、やはり「明治維新」であると考えられるのだ。するとオリジナルパートである万屋ファミリーをのぞき、この漫画で生き残れる歴史上の人物は「桂」だけという恐ろしい前提が、この銀魂の世界にはあるのだ。

 

 

これ、人情ギャグ漫画だから、空知先生そこまで考えていないから!

 

 

と、思う方もいらっしゃるでしょうが、私は空知先生とはかなりきっちり史実とのかねあいを考えている方だと思う。

 

 

例えばそれを逆の意味で裏付けしたのは、「ミツバ」の存在だ。ミツバは沖田総悟の姉として何の伏線もなく突然登場し、病で死んでいった。だが史実では病で倒れるのは沖田自身であり、姉のみつは病で倒れない。ミツバは、史実では夭折する沖田の身代わりになり、銀魂の世界において死んでいったと考えられるのだ。

このエピソードから、空知先生は、史実で死ぬ人が死なないためには、身代わりが必要だと考えているくらい、なるべく史実に誠実であるべきだと考えていることが読み取れる。とすると、この平和な銀魂ワールドが、一気に不吉な世界に思えてくるのだ。

 

そんなわけで私は割と「この人達、みんな死んじゃうんだ…」と薄ら寒い気持ちで銀魂を読んでいた。これは「あまちゃん」の世界でいつか地震がおこると知っていながら見ていた気持ちと似ている。

 

 

で、このたび銀魂では、56巻から将軍暗殺編が開始した。全パートが終わったらまとめて読もうと思っていたのだけど、どーにも気になってしまって買ってしまった。

 

そして読みながら「ついに銀魂では、歴史の分岐が始まったようである」という事実に、燃えたぎってしまった。

封神演義でいうと、ついに歴史の道しるべから外れた世界になってきたのである。

 

史実で考えると現在は徳川慶喜就任の1866年の12月。1867年の4月には高杉は結核で死に、同年10月大政奉還、11月坂本龍馬暗殺、翌年戊辰戦争開始、近藤が斬首、沖田が結核で死に、1868年には土方が戊辰戦争で死亡。と、怒濤の大虐殺タイムがそろそろはじまるのである。

 

 

とにかくそろそろ史実から乖離させないと、高杉が血を吐いて死んでしまう!という状況で、歴史の分岐が明確に始まったと考えるシーンは、「近藤が、攘夷志士を手を組む事を決意する」シーンだ。つまり59巻でヅラが近藤に共闘を呼びかけるシーン。そのシーンは、1ページにアップの人物で2コマという、銀魂にしては非常に珍しい、シンプルな構成だ。これは大きく史実を逸脱したシーンであり、且つ、このシーンがものすごく重要なシーンであると空知先生自身が考えているからではないだろうか?

 

そして高杉と銀時の戦いの後の朧の「まだ天に抗うか」「八咫烏が告げし天啓」という言葉は、この世界には天=史実があり、そこからの乖離を暗示している 。また、この将軍暗殺編において、歴史上のキャラクターの命を救い、発破をかけるのはオリジナルキャラクターの神威や神楽、そして銀時である。

 

また、今回のエピソードにおいて沖田が大きな影響力を持っているのも印象的だ。

実は先に述べたミツバのエピソードにおいて、私はどうして空知先生が、わざわざ突然ミツバを殺してまで沖田を生かすことにしたのか疑問だった。だが今回のエピソードを読み、ここで近藤と土方を救うために沖田は生かされていたのだな、と感じた。近藤は処刑され、沖田は病に倒れ、土方は一人戦い続ける、これが史実だ。沖田を生かす事で、本来辿るはずだった運命から真選組を、土方を、近藤を救おうとしているのではないだろうか?す、救ってくれるよね?まあとにかく「沖田」は「病で死ぬ」という非常に有名な史実に沿わないことにより、真選組新撰組と同じ運命はたどらないことが暗示されていたのではないだろうか?

 

あとは個人的には、この将軍暗殺編では20代以上の大人達、つまり土方、近藤、銀時がしめっぽく史実に負けそうになっているのに対し、沖田や神楽、神威といった少年少女達が運命に立ち向かっているのは、非常に少年ジャンプっぽくて良いと思いました。笑

 

 

 

ともあれ、このような歴史パロディ物において、歴史の分岐をさせるのって、ものすごく覚悟がいることだと思う。そこには必然性が必要だし、分岐させるからには、ある程度の救済が無ければならない。空知先生は、この銀魂における明治維新をどのように成し遂げようと考えているのだろうか?明治維新の前の大きな歴史の分岐点が「大政奉還」、銀魂の世界においては、天導衆を司る「天子様」が権力をすべて掌握するわけだ。なんとなくこれが銀魂のクライマックスになるような気がする。空知先生は、この幕末パロディ2次創作において、これからものすごく難しいことをやろうとしているのではないでしょうか?

 

 

 

***

と、ここから下は普通の感想ですが、高杉と銀時の戦いのシーンが本当にすばらしく、すごい漫画になったものだと思いました。高杉、銀時、桂、松陽の因縁を空知先生はおそらく物語の初盤から温めていたのでしょうが、そう思って読み返すと何もかもが切ない。ヅラと銀時も、ずっとこの過去を背負っていたかと思うと切ないじゃないか!

2巻で、ヅラが新八と神楽を背負う銀時に「今度は離すなよ」(すみません、これうろ覚えです)というニュアンスの言葉をかけるシーンがあるんですが、これってつまり「かつては銀時が自ら仲間との繋がりを切った」「それを桂も受け入れている」ということで、その事実に少々疑問を感じていました。銀時が自発的にそんなことをするだろうか?と思ったし、それを桂は受け入れるのだろうか?と思ったのです。でも、この因縁があるなら全てが納得で、紅桜編も全ての台詞が切なく聞こえる。

そして、実は、銀魂って、「銀時の再生の物語」なのだなぁとしみじみ思いました。銀さんは強くて、かっこよくて、大人の余裕に溢れているけど、実は1巻の時点の銀さんは「桂」と「高杉」ってとてつもなく大切な存在の魂を守る事ができずに、絶望していて、負け犬みたいな気持ちだったんじゃないかなー。そしてそれを歌舞伎町の仲間に支えられながら、まずは桂を、そして長い時間をかけて高杉取り戻す…そういう物語だったのかと。

 

そして銀時、高杉、桂、松陽と、真選組の3人が対比している構成も素晴らしい。高杉、銀時の因縁を58巻まで全く出さなかったのは、この真選組のエピソードと対比させるためなのだと思うとなんだか胸熱である。銀時は土方が、いつか自分と同じ道をたどるかもしれないと察し、かまい、気にしていたのだろうと思うと、思うと!!という感じである。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドラゴンボールの好きなところ

ドラゴンボールZ 復活の「F」公開に寄せて

 

たくさんの漫画を読んできたけれど、私にとってのナンバーワン漫画は「ドラゴンボール」なのだ。

 

私は面白い小説、漫画、映画は、「怖い」と思う。

 

思うのだが、怖い話は、とてつもなく上手に、さりげなく、「絶望」が描かれていると思うのだ。

 

そしてドラゴンボールも、サイヤ人編以降は、とてつもなく怖い漫画だと思う。実はサイヤ人編以降、ほとんど悟空は死んでいる。たとえばフリーザの戦闘力がわかったとき、人造人間が現れたとき、セル編でタイムマシンがもう一つ現れたとき、悟空はいつでも死んでたり死にかけたりしていて、いつだって悟空の仲間達はものすごく絶望的な状況なのだ。でも、「必ず悟空がなんとかしてくれる」という思いだけで、悟空の仲間達は希望を失わないし、私たちは読み進めることができる。

そんな絶望と、

 

第二の主人公であるブルマが、当初の夢をかなえて「王子様=ベジータ」と結婚するという、プロットだけで考えると少女漫画もびっくりの甘ったるいエンターテイメント性と、

 

悟空とベジータという最強の2人が命を落とすとき、2人とも最後の台詞は、子供に向け「母を頼む」と言う。

 この非常にシンプルであたたかい家族のあり方、

 

 

 

 

そんなところに私はいつでも心動かされるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

美人になれるかな?

私のなけなしの美人の友達、知り合いをよくよく観察すると「美人は努力している」としみじみ感じます。と、いうことはもしかして努力の法則を見いだし、努力すれば美人になれるんじゃないでしょうか?という記事です。ちなみに読めばわかると思うが、「これはクラスで一番美人の次元が違う美人」の法則ではなく、「そこそこ美人」の法則でございます。

 

 

1.美人は「顔」に一番時間をかけている

 
美人を観察していると気付かされるのだが、美人はいついかなる時でも必ず化粧をしている。そしてかなり頻繁に化粧直しをしている。

実は美人の大半は「化粧がうまい人」であることは、女子ならなんとなく理解できると思う。そもそもの骨格が違うから…と思い込むなかれ、美人とは己の顔に全力で向きあい、化粧に対しかなりの努力をしているの人達なのである。

 服にはあまりこだわりがない人が多い気がする。「顔」さえいつでも万全の体制であれば何を着ていようと問題ないと確信しているのだ。

 ちなみに次に時間をかけているのは「髪」だと思う。特に凝った髪型にしているわけではなく常に「それなり」の状態をキープしている。

 

意外にも美人はそんなに肌にはかまっていない気がする。ベースメークでカバーすれば良いし、頻繁に化粧直しをすれば良いだけなのだ。美人は「肌がきれいだからスッピンでも出かけられる」「化粧してもあまり顔が変わらない」「土日だけ化粧する」などとは決して言わない。安い化粧品でもなんでもいい。毎日必ず化粧をして、そこそこの髪型とそこそこの服装で出かけることが大事なのだ。

 

 

2.美人は傲慢だ

 

世間って美人に対してものすごく優しく、美人というだけでものすごいサービスを受けてることがある。

たとえば私は美人と食事をしたとき、従業員の男の子から食事やデザートがサービスされたことが何回かある。私はびっくりしたのだが、美人は驚いていなかった。多分良くある事なのだ。これはささいな例だが。

結果美人は傲慢になる。しかも本人はその傲慢さに全く気付いていないことが多いので、結構びっくりするような要求を人にすることがある。人から無償で何かをしてもらうことに慣れきっているのだ。

 

この傲慢さを今から身につけるのは至難の技である。ブスは卑屈だ。

ただ、人から好意で何かをしてもらったとき、「すみません」と言うのではなく「ありがとう」と答えるという小さな一歩から踏み出したい。

 

 

3.美人は群れない

ブスは群れるが、美人は決して群れない。これは謎である。

 

 

.結局は遺伝である

美人の母親は美人である。

当たり前と思うなかれ。前述の通り、美人とは日々美人であるべく努力している人なのだ。なぜそのような努力をしているのかというと、母親が努力していたからだ。だいたい美人の母親は、家でもちゃんと化粧をし、スカートをはいているものである。そういう母親の努力を小さい頃から間近でみることで、本人も努力しだすのだ。 つまり結局は遺伝だとも言える。

 ちなみに母親は娘がきれいになることを手放しでは喜ばないらしい。とりあえず母親は超えるのが美人への第一歩だ。

 

 

さて、美人になれるかな?どーかな。

 

 

 

 

 

 

辻村深月「スロウハイツの神様」(ネタバレ)

私はこの人の小説を読むと、「同世代だな」と強く感じます。更に言えば、同世代オタク女子。きっとこの人とは、同じ漫画や本を読んで育ったのだろうなと思います。そして同世代だからこの人の小説を面白いと感じるのかもしれません。例えば辻村さんがインタビューで価値観が変わった漫画に「東京BABYLON」をあげていて、超わかるんです。


同じ世代に生きた人って、やっぱり同じ感性をもっていますよね。たとえ違う地域に住んでいたとしても、同じ漫画やテレビ番組や歌手に夢中になり、同じ教育を受け、同じ事件をニュースで見て、同じような遊びをして育ったのだから。なので例えば、辻村深月さんにとって重要なテーマである「イジメ」に関する理解は、とても共感できます。この人と私は同じイジメを見て育ったと思う。クラスの中で「上」と「下」があって、ささいなことがきっかけで始まって、いじめる側もいじめられる側もおどろくほど卑屈で計算高い感情を持っていて…などなど、同世代のリアルさがあるなと思います。この人の書く主要な登場人物は一見ありがちなパターンにはまった、非現実的に恵まれた漫画的キャラクターなのですが(イケメン・生徒会長・ちょっと不良な親友・学校一の秀才etc..)実はネチネチして、とても現実的なイジメの空気の中にいる人が多いんです。そして本人も、それが偶像だとわかっている描写もある。(例えばある話では、ずっと「かわいい女の子」として書かれていた子が、実は自分では「化粧がうまいだけで本当の美人ではない」と思い、コンプレックスを抱えている描写がある。「スロウハイツの神様」も、一見クリエーター集団の同居というハチクロ的華やかな描写ではじまるけれども、部外者に「オタク集団、気持ちが悪い」と言われる描写がある。)その書き方に同世代的な妄想や、達観を感じたりもするわけです。結局この人が書きたいのはそのネチネチした感情で、各キャラクターに与えられた漫画的個性は虚構であり、作者が用意した救いなのではないかと思っています。


辻村さんの話で一番好きなのは、この「スロウハイツの神様」かもしれません。

この話は「コーちゃん」と呼ばれるライトノベル作家を中心に話が進みます。「コーちゃん」は中高生(のおそらくオタク)にとても人気があるのですが、その小説に憧れた少年が人を殺してしまったことから世間にバッシングを受けてしまい、小説が書けなくなってしまいます。

おそらく同世代オタクならば、いや、オタクでなくても、この話をよんだとき心の中で自らの「コーちゃん」を思い出すのではないでしょうか。グロテスクだったり、妄想的だから、親や健全な友達には理解されず、でも大好きでこっそり読んでいたあの小説や漫画。私が真っ先に思い出したのは「バトルロワイヤル」でした。とても面白かったのに、親からは読むなと言われ、世間的な評価も低いのが当時中学生だった自分には全くわかりませんでした。(まぁ今では少しわかりますが・・)とにかく当時の自分にとってはとても特別な小説だったんです。

さて、この「スロウハイツの神様」の「コーちゃん」は、ある女の子からもらった手紙がきっかけで再び小説を書けるようになります。かいつまんでいうと「コーちゃんの小説によって死んでしまった人がいるけれど、救われた人はもっといる」という手紙です。この話のテーマはおそらくここです。私は漫画や本に何度も救われてきました。漫画やゲームの及ぼす悪影響について言及され始めたのは、おそらく私達の世代からではないでしょうか。

「漫画や小説は悪影響を確かに及ぼすかもしれない、でもそれ以上に、その存在に命を救われた人はたくさんいる」…このメッセージに、私はとても共感するのです。


ちなみに最近の著書はあまり追いかけていません。大人になって少し毒気がぬけちゃったなという印象…昔の小説は必ず読者に対して「嘘」をいれていたのだけど、今でもいれているんだろうか?

 


追記)久々に「冷たい校舎の~」を読んで本当によくできた話だと思った。結末を分かった上で大人になってから読むと、実は主人公達リア充軍団の「無意識の悪意」を弾劾した話なのか?と思う。昔よんだときは「被害者」と「加害者」を入れ替わらせた彼女に嫌な気持ちを覚えたけど、なんだか彼女の視点で読むと実は彼らも明確に「加害者」だったんだなと思った。

 

再追記)コメントいただいた、通りすがりの方、ありがとうございました…!恐ろしいミスに頭をかかえました。最近の著書は、自分が家庭をもってからおいかけてみようかと思います。

 

 

 

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

 

 

パレード 吉田修一

漫画は何回でも読み返すけれど、本はほとんど読み返さない。
しかし私は、吉田修一の「パレード」という作品をもう4回位読んでいる。

この作品の何がそんなに面白いのか、自分でもよくわからない。
あとがきでもふれられているけれど、この作品にはある「秘密」が隠されている。1回目読んだときはなんて気持ちが悪い話かと思い、本棚の隅に追いやった。しかしある日、その秘密を知った上でふと読み返したくなり、読んでみた。そこまで気持ち悪いとは感じなくなっていた。3回目は純粋に登場人物の関係性を読み込みたくて読んだ。だんだん読んでいてほのぼのとした気持ちになってきた。私はこの人たちの生活にとても憧れている。

 

パレード (幻冬舎文庫)

パレード (幻冬舎文庫)