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ハンターハンターは幽遊白書のオマージュなのか その1

はじめに:

この記事は、別のブログで一度書いた記事を再編集したものです。そちらのブログにはそぐわないのでこのたび移動いたしました。ハンターが連載再開した2014年頃書いたものです。

ハンターハンターを読んでいて感じたぼんやりとした疑問(なぜ冨樫は蟲編を始めてしまったのか?)(ゴンさんってどうして登場したんだ?)(なぜ父親との再会で連載を終了させなかったのか?)と、幽白におけるある設定へのかねてからの想いがふと一致したので、語ってみました。

 

 

問題提起:

これは表題の通り「ハンターハンターとは幽遊白書のオマージュ、あるいはパロディである」という仮説の話しです。とにかく似ていると言われるこの両作品ですが、「似ている」のではなく、ハンターハンターとは冨樫先生にとって幽遊白書のオマージュ、あるいはパロディではないのか?という考察です。

横文字を使わずに言うと、幽遊白書を書き直したのがハンターハンターなのではないか?ってことです。

 

なぜオマージュなのか?:


まず始めに、幽遊白書とはとても切ない話です。連載当初は「主人公が別の世界で様々な経験をし、成長して元の世界に戻る」という王道の物語の構成をとっていましたが、物語中盤から主人公の幽介は別の世界のほうが面白くなってしまい、現実世界に物足りなさを感じてしまいます。

そんな幽介に作者が用意した救いは「実は幽介は元々別の世界の住民だった」というものです。幽介は徐々に別の世界と現実の世界をゴチャゴチャにしていきます。物語の最後は現実の世界で生きていますが、おそらく幽介はいつか別世界の方へ旅立ってしまうのでしょう。
最終回の後を思うとこれほど切ない話はありません。その切なさも魅力の1つなのでしょうが。

 

さて、幽遊白書は連載途中から作者の精神状態と絡みあい、話も絵もグチャグチャになっていきます、特に最後は無理矢理終わらしたのが明確です。


完璧主義の冨樫先生にとっては、無理矢理作品を収束させたことは心の残りだったのではないでしょうか?

そう、ハンターハンターとはこの消化不良で終わってしまった幽遊白書で消化しきれなかった要素を消化し、きちんと終わらせるために始まった作品なのではないでしょうか?

そう思った一つのきっかけは「四人組」です。

連載当初から言われていましたが、ゴンは幽介、キルアは飛影、クラピカは蔵馬、レオリオは桑原によく似ています。似過ぎです。

漫画として全く違うチームを用意することはできたはずなので、これはあえて前連載作と同じ構成のチームを用意したのではないでしょうか?そう、似ているのではなく、似せているのではないでしょうか?(尚、作者の力不足、想像力の限界によって似たようなチームになったのではないかという意見があるようですが、冨樫先生に限ってありえません。いかようにも、全く違うチームを作る事ができたはずです。ここは冨樫信者丸出しですが、確信しています。)

 

…とはいえ、

ハンターハンターとは、幽遊白書へのオマージュであるからといって、ハンターがすべて幽遊白書をなぞっているという意味でとらえているわけではありません。

ハンターという新しい世界でしかできないオリジナルのエピソードもありますし、「ヒソカ」や「幻影旅団」などはハンターでのオリジナルパーツだと考えられます。

ある程度作者が重要と考える幽遊白書のパーツを使用し、

1:消化不良だったエピソードや連載長期化に伴い発生した後付けの要素を消化する、

2:前作において目的を見失ったまま最終回を迎えた主人公に目的と救いを与える、

3:「ちゃんと最終回を迎える」

 

…というような目的があるのではないかと思っています。

 

 

 

 

その2に続きます。

 

ハンターハンター幽遊白書のオマージュであると確信した、「蟲編=仙水編である」という説について語ります。

 

 

村上春樹と夏目漱石

*途中で村上春樹氏、夏目漱石氏の小説の内容に触れています。お気をつけ下さい。

 

 

 

誰もそんなこと言っているのを聞いた事がないけれど、私は村上春樹と、夏目漱石の小説はとても似ていると思っている。

 

 

どうしてそう思ったか。高校生の頃、同時期に「ノルウェイの森」と「こころ」を読んだ私は、いたって自然に「この2つはまったく同じ事を書いているではないか」と思ったのだ。

 

 

さて、その後私はたくさんの村上春樹の作品と夏目漱石の作品を読み、

なぜ高校生であった当時、その2冊が同じ物と感じたのかのを考えた。
 

まあ簡単に考えるとその「設定」である。

 

一つが主人公が「高等遊民」であること。

(村上さんの主人公は働いてはいるが、いわゆる普通のサラリーマンとは言えず、時間とお金を自分の自由に使える人が多い)

 

もう一つが、「三角関係」と「自殺」が物語にちりばめられていることだ。

 

 

「設定」だけか、と思われるかもしれないが、

 村上氏の小説は、デビュー作からほぼすべての小説において「三角関係」があり「女性が自殺」する。「三角関係」なんて小説ではよくある設定ではないかとお思いの方、「ほぼすべて」ですよ?これは偶然ではなく、村上氏にとっての小説を書く上での縛りというか、作者にとって毎回消化しなければならないテーマであるのだと理解している。

 

で、三角関係といえば、夏目漱石である。彼の小説には三角関係や不倫が繰り返し登場し、「三角関係三部作」と言えるものまである。(「こころ」「それから」「門」)

 

そう、2人とも、軽い文体で執拗に、何作にも渡り、時に登場人物を変えながら、何度も何度もこの「三角関係」をテーマを選んでいる。ここまで執拗に取り組んでいる設定が、同一であることは果たして偶然なのだろうか?

偶然であろうと、偶然でなかろうと、「自分の中にわだかまりを残した、小説を書くにいたる初期衝動」が、この2人は似ているような気がするのだ。

そして文体、読んだ感触、生活の習慣が。

 

 

 

ところが私は先日びっくりな記事を発見した。 

 

 

 

www.welluneednt.com

 

 

サイト自体は3月末まで公開だそうなので、ブックマークも消えてしまうのだろうか?(追記:消えました)

 

私が驚いた記事の内容をかいつまむと、このサイトは作家の村上春樹氏がランダムで読者からの質問に答えるサイトで、「こころ」の良さを伝えたいという高校の国語教師に対し、村上春樹氏が、夏目漱石氏の「こころ」の良さは「よくわからない」と答えたのだ。

 

私はいつの日か村上氏の夏目漱石評が読みたいと思っていたのだが、こんなにあっさり否定されるとはびっくりした。でもなんとなく諦めきれない。村上先生、本当ですか?

 

それから (新潮文庫)

それから (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

ET 20th anniversary とトトロ

大人になったら見方が変わる映画ってたくさんあると思うのだけど、やっぱりその中でも「ET」と「となりのトトロ」は格別だと思うんだ。

 

 

ETも、トトロも、自分がエリオットやメイ位の歳の頃から見始めて、今28歳、一体何回この映画を見たのだろうか?見るたびに、感動のポイントや感情移入する対象が変わって、自分の成長をよくも悪くも気付かせてくれる。もう映画の中の両親の年に近づく今見ると、親がトトロを見る度「かわいそう」とつぶやいていたのを思い出す。子供の頃は何言っているんだと思っていたけれど、最近はよくわかる。

 

この映画、子供達がとてもかわいそうなのだ。トトロもETも結局は片親の不在が物語の引き金になっている。

大人になってからみると、トトロが現実にいるとは思えなくなってくる。サツキもメイも、母のいない寂しさ故にトトロという幻想が見えるようになってしまったんだな…と思う。

そして今回ETの20th anniversary editionを見たのだが、昔は赤ん坊や、犬のような存在として見ていたが、改めてみるとETの態度は老人のようだし、かなり知性が高い存在として設定されていることに気付かされた。ETエリオットや兄妹達を観察し、子供であることに始めから気付き、取り巻く状況(母が不安定になっていること、父親がいないこと)も、おそらく理解している。そういう撮り方をしていたことに今更気付かされた。

 

サツキ、メイ、エリオットに足りないのは「親戚のおじさん」だ。利害に関係なく、ただ甘やかして一緒に遊んでくれるおじさん。その存在がトトロでありETなのだと思う。

 

「トトロとは結局妄想なのか」と思うことがあるなんて、子供の頃は想像もしていなかった、サツキやメイをかわいそうだと思ってしまった時点で、私にはもう永久にトトロは見えないだろう。でも子供の頃、サツキやメイがうらやましかったし、いつか自分もトトロと出会えると確信していた気持ちは忘れたくはないと思う。

 

はじめに

はじめに

 

このblogを書き出すにあたり、きっかけは2つある。

自分のための覚え書きとして、綴っておきたい。

 

 

1つは2014年の2月20日の金曜ロードSHOWで「風立ちぬ」を観賞したこと。

もう1つはNHK 「SWITCHインタビュー達人達 松井優征X佐藤オオキ」と観賞したこと。

 

 

風立ちぬ」の観賞は2回目。

1回目の観賞の後、有名な岡田斗司夫さんの批評を見て、2回目を見る事を楽しみにしていた。なるほど自らの欲望をためらうことなくさらす芸術家の覚悟をみたが、それ以上に今回の観賞でやけに心に残った言葉は、劇中で何度も繰り返される、「まだ、風が吹いているか?」という言葉だった。

 

なぜ、この言葉がやけに心にひっかかったのか。

 

その後「SWITCHインタビュー達人達 松井優征X佐藤オオキ」を観賞。松井優征さんは「暗殺教室」の作者の漫画家さん。佐藤オオキさんはnendoというデザイン会社を立ち上げたデザイナーさん。創作性について語りあう彼らをみて、私は「ああ、彼らのなかには風が吹いているのだな」と思った。その事実がたまらなくうらやましかった。

 

そして私の中に「風は吹いているのだろうか?」

 

 

私はここ1年くらいとてもぐずぐずしている。このままで良いのかずっと考えている。

 

でも思ったのだが、そう悩む時点で、おそらく風は吹いているのだ。全く風が吹いていなければ、悩む事はないはずだ。

 

私の中に、何かを創作し、発信したいという風が吹いている。どんなわずかな事でも良い。

 

だからこのブログを開設した。

 

 

風立ちぬ [DVD]

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