2.5じげん

漫画 小説 映画 オタク

銀魂によせて

私がジャンプを読むのを辞めたのは、確か封神演義が連載終了したときだった。

 

その後のジャンプ連載漫画は、有名どころのみBOOK OFFで立ち読みし、気に入れば書店で購入というスタンスでいた。そんな私が非常に久しぶりに、有名どころではなく、立ち読みすることもなく、コミックスの第1巻を買った漫画、それが銀魂だった。

 

ちなみに当時銀魂はジャンプ打ち切りレースの本名馬であり、第1巻の初版は少なめに刷ったところ、想定外に売れたため入手困難になったというエピソードは有名だ。

 

なぜ私が銀魂を買おうと思ったのかというと、私は非常に安易な史実幕末ファンであり、特に「新撰組」に関する小説、漫画は一応チェックするようにしているからである。

この銀魂に登場する、「真撰組」の隊服は、有名な土方歳三の洋装写真をもとにデザインされていると考えられる。洋装、短髪ということで銀魂内の土方十四郎のビジュアルは、かなり史実の土方歳三のイメージと近い。この、史実においては土方歳三しか着ることが無かった「洋装」を、近藤が、沖田が着て、そして彼らもまた短髪にしていることに、私はなんだかロマンを感じたのである。

 

銀魂の1巻を読んだ感想は、非常に失礼ながら、よくできた同人誌みたいだな。というものだった。それはクオリティー的な意味ではなく、歴史上の人物達の、非常に良く出来た萌え設定による、幕末パロディ2次創作を読んでいる気持ちになったのだ。登場する歴史上の登場人物達がみな、より「萌える」設定を付随して登場し、ゆるやかに歴史上の出来事とリンクして物語が進行している。そして特にフューチャーされているのが、高杉、桂、吉田松陰新撰組という、幕末の有名どころばかり。

 

正直なところ、私のような薄い幕末ファンであれば、誰でも銀魂には萌えることができるだろう。でも、決してそれだけでは魅力が銀魂にはあると思う。それが何なのか私にはうまく説明できないのだが、このたび久々に銀魂56-59巻を購入し、なんとなく感じるものがあった。空知先生は、幕末パロディ2次創作において、ものすごく難しいことをやろうとしているのではないか?と思ったのである。

 

 

まず先にも説明したが、この銀魂の世界では、ギャグパートとシリアスパートをいったりきたりしながら、ゆるやかに史実に呼応した事件がおこり、時間が流れていく。

そして高杉、桂、吉田松陰新撰組という、幕末の有名どころをフューチャーした、幕末パロディ2次創作である以上、この漫画の行き着く先は、やはり「明治維新」であると考えられるのだ。するとオリジナルパートである万屋ファミリーをのぞき、この漫画で生き残れる歴史上の人物は「桂」だけという恐ろしい前提が、この銀魂の世界にはあるのだ。

 

 

これ、人情ギャグ漫画だから、空知先生そこまで考えていないから!

 

 

と、思う方もいらっしゃるでしょうが、私は空知先生とはかなりきっちり史実とのかねあいを考えている方だと思う。

 

 

例えばそれを逆の意味で裏付けしたのは、「ミツバ」の存在だ。ミツバは沖田総悟の姉として何の伏線もなく突然登場し、病で死んでいった。だが史実では病で倒れるのは沖田自身であり、姉のみつは病で倒れない。ミツバは、史実では夭折する沖田の身代わりになり、銀魂の世界において死んでいったと考えられるのだ。

このエピソードから、空知先生は、史実で死ぬ人が死なないためには、身代わりが必要だと考えているくらい、なるべく史実に誠実であるべきだと考えていることが読み取れる。とすると、この平和な銀魂ワールドが、一気に不吉な世界に思えてくるのだ。

 

そんなわけで私は割と「この人達、みんな死んじゃうんだ…」と薄ら寒い気持ちで銀魂を読んでいた。これは「あまちゃん」の世界でいつか地震がおこると知っていながら見ていた気持ちと似ている。

 

 

で、このたび銀魂では、56巻から将軍暗殺編が開始した。全パートが終わったらまとめて読もうと思っていたのだけど、どーにも気になってしまって買ってしまった。

 

そして読みながら「ついに銀魂では、歴史の分岐が始まったようである」という事実に、燃えたぎってしまった。

封神演義でいうと、ついに歴史の道しるべから外れた世界になってきたのである。

 

史実で考えると現在は徳川慶喜就任の1866年の12月。1867年の4月には高杉は結核で死に、同年10月大政奉還、11月坂本龍馬暗殺、翌年戊辰戦争開始、近藤が斬首、沖田が結核で死に、1868年には土方が戊辰戦争で死亡。と、怒濤の大虐殺タイムがそろそろはじまるのである。

 

 

とにかくそろそろ史実から乖離させないと、高杉が血を吐いて死んでしまう!という状況で、歴史の分岐が明確に始まったと考えるシーンは、「近藤が、攘夷志士を手を組む事を決意する」シーンだ。つまり59巻でヅラが近藤に共闘を呼びかけるシーン。そのシーンは、1ページにアップの人物で2コマという、銀魂にしては非常に珍しい、シンプルな構成だ。これは大きく史実を逸脱したシーンであり、且つ、このシーンがものすごく重要なシーンであると空知先生自身が考えているからではないだろうか?

 

そして高杉と銀時の戦いの後の朧の「まだ天に抗うか」「八咫烏が告げし天啓」という言葉は、この世界には天=史実があり、そこからの乖離を暗示している 。また、この将軍暗殺編において、歴史上のキャラクターの命を救い、発破をかけるのはオリジナルキャラクターの神威や神楽、そして銀時である。

 

また、今回のエピソードにおいて沖田が大きな影響力を持っているのも印象的だ。

実は先に述べたミツバのエピソードにおいて、私はどうして空知先生が、わざわざ突然ミツバを殺してまで沖田を生かすことにしたのか疑問だった。だが今回のエピソードを読み、ここで近藤と土方を救うために沖田は生かされていたのだな、と感じた。近藤は処刑され、沖田は病に倒れ、土方は一人戦い続ける、これが史実だ。沖田を生かす事で、本来辿るはずだった運命から真選組を、土方を、近藤を救おうとしているのではないだろうか?す、救ってくれるよね?まあとにかく「沖田」は「病で死ぬ」という非常に有名な史実に沿わないことにより、真選組新撰組と同じ運命はたどらないことが暗示されていたのではないだろうか?

 

あとは個人的には、この将軍暗殺編では20代以上の大人達、つまり土方、近藤、銀時がしめっぽく史実に負けそうになっているのに対し、沖田や神楽、神威といった少年少女達が運命に立ち向かっているのは、非常に少年ジャンプっぽくて良いと思いました。笑

 

 

 

ともあれ、このような歴史パロディ物において、歴史の分岐をさせるのって、ものすごく覚悟がいることだと思う。そこには必然性が必要だし、分岐させるからには、ある程度の救済が無ければならない。空知先生は、この銀魂における明治維新をどのように成し遂げようと考えているのだろうか?明治維新の前の大きな歴史の分岐点が「大政奉還」、銀魂の世界においては、天導衆を司る「天子様」が権力をすべて掌握するわけだ。なんとなくこれが銀魂のクライマックスになるような気がする。空知先生は、この幕末パロディ2次創作において、これからものすごく難しいことをやろうとしているのではないでしょうか?

 

 

 

***

と、ここから下は普通の感想ですが、高杉と銀時の戦いのシーンが本当にすばらしく、すごい漫画になったものだと思いました。高杉、銀時、桂、松陽の因縁を空知先生はおそらく物語の初盤から温めていたのでしょうが、そう思って読み返すと何もかもが切ない。ヅラと銀時も、ずっとこの過去を背負っていたかと思うと切ないじゃないか!

2巻で、ヅラが新八と神楽を背負う銀時に「今度は離すなよ」(すみません、これうろ覚えです)というニュアンスの言葉をかけるシーンがあるんですが、これってつまり「かつては銀時が自ら仲間との繋がりを切った」「それを桂も受け入れている」ということで、その事実に少々疑問を感じていました。銀時が自発的にそんなことをするだろうか?と思ったし、それを桂は受け入れるのだろうか?と思ったのです。でも、この因縁があるなら全てが納得で、紅桜編も全ての台詞が切なく聞こえる。

そして、実は、銀魂って、「銀時の再生の物語」なのだなぁとしみじみ思いました。銀さんは強くて、かっこよくて、大人の余裕に溢れているけど、実は1巻の時点の銀さんは「桂」と「高杉」ってとてつもなく大切な存在の魂を守る事ができずに、絶望していて、負け犬みたいな気持ちだったんじゃないかなー。そしてそれを歌舞伎町の仲間に支えられながら、まずは桂を、そして長い時間をかけて高杉取り戻す…そういう物語だったのかと。

 

そして銀時、高杉、桂、松陽と、真選組の3人が対比している構成も素晴らしい。高杉、銀時の因縁を58巻まで全く出さなかったのは、この真選組のエピソードと対比させるためなのだと思うとなんだか胸熱である。銀時は土方が、いつか自分と同じ道をたどるかもしれないと察し、かまい、気にしていたのだろうと思うと、思うと!!という感じである。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドラゴンボールの好きなところ

ドラゴンボールZ 復活の「F」公開に寄せて

 

たくさんの漫画を読んできたけれど、私にとってのナンバーワン漫画は「ドラゴンボール」なのだ。

 

私は面白い小説、漫画、映画は、「怖い」と思う。

 

思うのだが、怖い話は、とてつもなく上手に、さりげなく、「絶望」が描かれていると思うのだ。

 

そしてドラゴンボールも、サイヤ人編以降は、とてつもなく怖い漫画だと思う。実はサイヤ人編以降、ほとんど悟空は死んでいる。たとえばフリーザの戦闘力がわかったとき、人造人間が現れたとき、セル編でタイムマシンがもう一つ現れたとき、悟空はいつでも死んでたり死にかけたりしていて、いつだって悟空の仲間達はものすごく絶望的な状況なのだ。でも、「必ず悟空がなんとかしてくれる」という思いだけで、悟空の仲間達は希望を失わないし、私たちは読み進めることができる。

そんな絶望と、

 

第二の主人公であるブルマが、当初の夢をかなえて「王子様=ベジータ」と結婚するという、プロットだけで考えると少女漫画もびっくりの甘ったるいエンターテイメント性と、

 

悟空とベジータという最強の2人が命を落とすとき、2人とも最後の台詞は、子供に向け「母を頼む」と言う。

 この非常にシンプルであたたかい家族のあり方、

 

 

 

 

そんなところに私はいつでも心動かされるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

美人になれるかな?

私のなけなしの美人の友達、知り合いをよくよく観察すると「美人は努力している」としみじみ感じます。と、いうことはもしかして努力の法則を見いだし、努力すれば美人になれるんじゃないでしょうか?という記事です。ちなみに読めばわかると思うが、「これはクラスで一番美人の次元が違う美人」の法則ではなく、「そこそこ美人」の法則でございます。

 

 

1.美人は「顔」に一番時間をかけている

 
美人を観察していると気付かされるのだが、美人はいついかなる時でも必ず化粧をしている。そしてかなり頻繁に化粧直しをしている。

実は美人の大半は「化粧がうまい人」であることは、女子ならなんとなく理解できると思う。そもそもの骨格が違うから…と思い込むなかれ、美人とは己の顔に全力で向きあい、化粧に対しかなりの努力をしているの人達なのである。

 服にはあまりこだわりがない人が多い気がする。「顔」さえいつでも万全の体制であれば何を着ていようと問題ないと確信しているのだ。

 ちなみに次に時間をかけているのは「髪」だと思う。特に凝った髪型にしているわけではなく常に「それなり」の状態をキープしている。

 

意外にも美人はそんなに肌にはかまっていない気がする。ベースメークでカバーすれば良いし、頻繁に化粧直しをすれば良いだけなのだ。美人は「肌がきれいだからスッピンでも出かけられる」「化粧してもあまり顔が変わらない」「土日だけ化粧する」などとは決して言わない。安い化粧品でもなんでもいい。毎日必ず化粧をして、そこそこの髪型とそこそこの服装で出かけることが大事なのだ。

 

 

2.美人は傲慢だ

 

世間って美人に対してものすごく優しく、美人というだけでものすごいサービスを受けてることがある。

たとえば私は美人と食事をしたとき、従業員の男の子から食事やデザートがサービスされたことが何回かある。私はびっくりしたのだが、美人は驚いていなかった。多分良くある事なのだ。これはささいな例だが。

結果美人は傲慢になる。しかも本人はその傲慢さに全く気付いていないことが多いので、結構びっくりするような要求を人にすることがある。人から無償で何かをしてもらうことに慣れきっているのだ。

 

この傲慢さを今から身につけるのは至難の技である。ブスは卑屈だ。

ただ、人から好意で何かをしてもらったとき、「すみません」と言うのではなく「ありがとう」と答えるという小さな一歩から踏み出したい。

 

 

3.美人は群れない

ブスは群れるが、美人は決して群れない。これは謎である。

 

 

.結局は遺伝である

美人の母親は美人である。

当たり前と思うなかれ。前述の通り、美人とは日々美人であるべく努力している人なのだ。なぜそのような努力をしているのかというと、母親が努力していたからだ。だいたい美人の母親は、家でもちゃんと化粧をし、スカートをはいているものである。そういう母親の努力を小さい頃から間近でみることで、本人も努力しだすのだ。 つまり結局は遺伝だとも言える。

 ちなみに母親は娘がきれいになることを手放しでは喜ばないらしい。とりあえず母親は超えるのが美人への第一歩だ。

 

 

さて、美人になれるかな?どーかな。

 

 

 

 

 

 

辻村深月「スロウハイツの神様」(ネタバレ)

私はこの人の小説を読むと、「同世代だな」と強く感じます。更に言えば、同世代オタク女子。きっとこの人とは、同じ漫画や本を読んで育ったのだろうなと思います。そして同世代だからこの人の小説を面白いと感じるのかもしれません。例えば辻村さんがインタビューで価値観が変わった漫画に「東京BABYLON」をあげていて、超わかるんです。


同じ世代に生きた人って、やっぱり同じ感性をもっていますよね。たとえ違う地域に住んでいたとしても、同じ漫画やテレビ番組や歌手に夢中になり、同じ教育を受け、同じ事件をニュースで見て、同じような遊びをして育ったのだから。なので例えば、辻村深月さんにとって重要なテーマである「イジメ」に関する理解は、とても共感できます。この人と私は同じイジメを見て育ったと思う。クラスの中で「上」と「下」があって、ささいなことがきっかけで始まって、いじめる側もいじめられる側もおどろくほど卑屈で計算高い感情を持っていて…などなど、同世代のリアルさがあるなと思います。この人の書く主要な登場人物は一見ありがちなパターンにはまった、非現実的に恵まれた漫画的キャラクターなのですが(イケメン・生徒会長・ちょっと不良な親友・学校一の秀才etc..)実はネチネチして、とても現実的なイジメの空気の中にいる人が多いんです。そして本人も、それが偶像だとわかっている描写もある。(例えばある話では、ずっと「かわいい女の子」として書かれていた子が、実は自分では「化粧がうまいだけで本当の美人ではない」と思い、コンプレックスを抱えている描写がある。「スロウハイツの神様」も、一見クリエーター集団の同居というハチクロ的華やかな描写ではじまるけれども、部外者に「オタク集団、気持ちが悪い」と言われる描写がある。)その書き方に同世代的な妄想や、達観を感じたりもするわけです。結局この人が書きたいのはそのネチネチした感情で、各キャラクターに与えられた漫画的個性は虚構であり、作者が用意した救いなのではないかと思っています。


辻村さんの話で一番好きなのは、この「スロウハイツの神様」かもしれません。

この話は「コーちゃん」と呼ばれるライトノベル作家を中心に話が進みます。「コーちゃん」は中高生(のおそらくオタク)にとても人気があるのですが、その小説に憧れた少年が人を殺してしまったことから世間にバッシングを受けてしまい、小説が書けなくなってしまいます。

おそらく同世代オタクならば、いや、オタクでなくても、この話をよんだとき心の中で自らの「コーちゃん」を思い出すのではないでしょうか。グロテスクだったり、妄想的だから、親や健全な友達には理解されず、でも大好きでこっそり読んでいたあの小説や漫画。私が真っ先に思い出したのは「バトルロワイヤル」でした。とても面白かったのに、親からは読むなと言われ、世間的な評価も低いのが当時中学生だった自分には全くわかりませんでした。(まぁ今では少しわかりますが・・)とにかく当時の自分にとってはとても特別な小説だったんです。

さて、この「スロウハイツの神様」の「コーちゃん」は、ある女の子からもらった手紙がきっかけで再び小説を書けるようになります。かいつまんでいうと「コーちゃんの小説によって死んでしまった人がいるけれど、救われた人はもっといる」という手紙です。この話のテーマはおそらくここです。私は漫画や本に何度も救われてきました。漫画やゲームの及ぼす悪影響について言及され始めたのは、おそらく私達の世代からではないでしょうか。

「漫画や小説は悪影響を確かに及ぼすかもしれない、でもそれ以上に、その存在に命を救われた人はたくさんいる」…このメッセージに、私はとても共感するのです。


ちなみに最近の著書はあまり追いかけていません。大人になって少し毒気がぬけちゃったなという印象…昔の小説は必ず読者に対して「嘘」をいれていたのだけど、今でもいれているんだろうか?

 


追記)久々に「冷たい校舎の~」を読んで本当によくできた話だと思った。結末を分かった上で大人になってから読むと、実は主人公達リア充軍団の「無意識の悪意」を弾劾した話なのか?と思う。昔よんだときは「被害者」と「加害者」を入れ替わらせた彼女に嫌な気持ちを覚えたけど、なんだか彼女の視点で読むと実は彼らも明確に「加害者」だったんだなと思った。

 

再追記)コメントいただいた、通りすがりの方、ありがとうございました…!恐ろしいミスに頭をかかえました。最近の著書は、自分が家庭をもってからおいかけてみようかと思います。

 

 

 

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

 

 

パレード 吉田修一

漫画は何回でも読み返すけれど、本はほとんど読み返さない。
しかし私は、吉田修一の「パレード」という作品をもう4回位読んでいる。

この作品の何がそんなに面白いのか、自分でもよくわからない。
あとがきでもふれられているけれど、この作品にはある「秘密」が隠されている。1回目読んだときはなんて気持ちが悪い話かと思い、本棚の隅に追いやった。しかしある日、その秘密を知った上でふと読み返したくなり、読んでみた。そこまで気持ち悪いとは感じなくなっていた。3回目は純粋に登場人物の関係性を読み込みたくて読んだ。だんだん読んでいてほのぼのとした気持ちになってきた。私はこの人たちの生活にとても憧れている。

 

パレード (幻冬舎文庫)

パレード (幻冬舎文庫)

 

 

ハンターハンターは幽遊白書のオマージュなのか 3 〜どうして「キルア」がゴンの親友なのか〜

その3です

 

ハンターハンター幽遊白書のオマージュとして考えたとき、最大の変更点はなんでしょうか?それは「キルア」の存在です。

最後にこの「なぜキルアなのか?」という謎について考察し、終わりたいと思います。

 

 

なぜキルアなのか?:

これは実はハンター連載当初からぼんやり思っていた疑問でした。

「なぜキルアなんだろう…」と。

もっと具体的に言うと「なぜキルアがゴンの親友なのだろう…」と。

 

メインの4人組の構成、キャラクターがあまりに似ており、連載当初は幽遊白書に構成が似過ぎていると騒がれていましたが、もうあまり似ていると言われることはなくなりましたよね。それは「キルア」の存在によるものが多いと思います。幽遊白書ハンターハンターでは「飛影=キルア」の役割が大きく異なります。

 


ゴンの親友であるキルアはハンターハンターにおいて第二の主人公と言っても過言ではありません。しかし幽遊白書におけるキルアは「飛影」、どちらかといえば蔵馬とセットになることが多い存在であり、あくまで「主人公グループの1員」という存在でした。幽遊白書の4人グループを踏襲したことを考えると、ゴンの親友はレオリオ=桑原であるべきです。ところがそのポジションはキルア=飛影になった。これはかなり大きな変更点です。ではこの変更で、一体幽遊白書の何を消化しようとしたのでしょうか?

 

それはものすごく単純に考えると、「飛影というキャラクター」ではないでしょうか。飛影というキャラクターが消化不良であり、描ききれなかったと考えられたため、ハンターハンターではキルアというキャラクターに生まれかわり、第二の主役というポジションに配置し、きちんと描かれようとしているのではないでしょうか。

 


飛影というキャラクター:
さて、この飛影というキャラクター、あまり知られていないけれど、彼は「少年である」という設定があります。


妖怪としては蔵馬やその他の登場する妖怪より明確に年下の設定だし、双子の雪菜もビジュアルは子供です(これは他の雪女のビジュアルと比べると明確です)飛影は「チビ」と言われても怒りません、これから大人になり背が伸びるはずだからです。


…ということで、実は、飛影は人間の年齢にしたら幽助と同じ年か少し下くらいの設定なのではないかと考えられます、つまり「少年」です。その若さで蔵馬や躯とわたりあっていたということは、実は幽助同様すごい才能の持ち主なわけです。作中で一番精神的な成長をみせているのも飛影だし、飛影は、よくよく考えてみると幽助に年齢も才能も精神面も近い「友人」として最もふさわしい存在なわけです。

 

幽遊白書における幽助の精神的な孤独を埋めることができたのは実は飛影だったのかもしれない」という要素を消化したのが「キルア」なのではないでしょうか?

 

 


アルカと雪菜:

飛影といえば双子の妹の雪菜です。

ということで、キルアにも溺愛する妹アルカが登場します。言及はされていないけど、この2人は双子なのではないかと思っています。31巻の表紙がわかりやすいですが、キルアとアルカは、飛影と雪菜をあべこべにしたかのようなビジュアルをしています。

さて、詳しくは割愛しますが、つかず離れずな関係性の飛影と雪菜とは違い、キルアはアルカの手を取り一緒に生きていく決意をします。これも消化点なんですかね。

 

 


まとめ:

 

長々と書きましたがこれはもちろん一つの妄想です。こうやって妄想をかきたてられる冨樫先生の漫画が今も昔も大好きです。妄想の中ですら、冨樫先生、ちゃんと幽助や飛影や幽白のキャラクターのことが大切だったんだなと思い、嬉しく思います。ゆっくりでもいいので、これからもずっと漫画を描き続けてほしいです。

 

もしも長々と読んでくださった方いらっしゃいましたらありがとうございました。

暗黒大陸編、楽しみですね!

 

 

 

 

 

幽遊白書 全19巻セット (ジャンプ コミックス)

幽遊白書 全19巻セット (ジャンプ コミックス)

 

 

 

 

ハンターハンターは幽遊白書のオマージュなのか 2 〜キメラアント編とは仙水編である〜

その2です

 

ハンターハンター幽遊白書のオマージュとして考えたとき、そのストーリー展開がある程度似ていることに気付かされます。キャラクターもいくらでも類似点があります(レオリオ=桑原が医者を目指しているとかクラピカ=蔵馬が第2形態があるとか師匠であるビスケ=玄海が二面性があるとか)。

何編は何編と呼応している…とこじつければ色々こじつくのだけど、ストーリーとして1番明確なオマージュが蟲編であると考えられるのです。

 


蟲編とは仙水編へのオマージュである:

 

蟲編の連載開始時、冨樫先生がどうしてこのような大風呂敷広げてしまったのかと疑問に思った方も多いのではないでしょうか?壮大な設定、強すぎる敵、暗すぎるエピソードの数々…全く冨樫先生無茶しやがって…また体を壊すぞ!と思ったものです。しかし、この蟲編が、幽遊白書における仙水編へのオマージュであると考えたら納得です。

幽白における仙水編は、人間関係、設定の変更における大いなるターニングポイントです。ハンターハンター幽遊白書のオマージュであるのであれば、蟲編=仙水編ははじめざるを得ないエピソードだったわけです。

 

 

さて、何を言っているんだとお思いの方も多いでしょうが、蟲編と仙水編には大きな共通点が2つあります。

 

蟲編と仙水編の共通点:

 

さて、蟲編とは仙水編へのオマージュであるとすれば、仙水とは王です。

 

まずはラストシーン、「王とコムギ」の美しい最後はまさに「仙水と樹」の最後と同じ構造です。主人公に倒される訳ではなく、彼らは「病」で、「閉じられた空間の中」で「自分とは違う生き物」と2人きりで死んでいきます。

 

ただ、王は仙水はよりも幸せの中で死んでいきます。

 

王は「なぜ生まれたのか」と疑問に思いながらも、最後の瞬間に「この瞬間のために生まれてきたのだ」と悟ります。

これは「なぜ人間に生まれたのか」と感じ「次は魔族に生まれますように」と思いながら死んでいった仙水とは真逆の心です。

冨樫先生は、仙水にも王のような気付きの中で最期を迎えてほしかったのでしょうか。王を通じて、仙水の最期を救済しているわけです。

 

 

そして「主人公が髪が伸び、劇的にパワーアップすること」も大きな共通点です。
通称「ゴンさん(髪が伸び劇的に強くなったゴンに対するネット上での通称)」の登場も蟲編の謎の1つでした。正直、あまりにも唐突すぎるエピソードです。ですがこの蟲編が仙水編のオマージュと考えると納得です。

 

仙水編で幽介は一度瀕死となり、「魔族」に目覚め、髪が伸びた状態で強くなり復活します。これは幽白最大のストーリーの改変だっただけに、ハンターにおいてもこれを踏襲しないわけにはいかなかったのでしょう。

 

通称ゴンさんの登場は、幽介の魔族覚醒と呼応しているわけです。

 

そして髪が伸び、ひん死の状態になることがまるで一種の通過儀礼となり、ゴンはジンと、幽介はライゼンと出会います。血のつながった先駆者との出会いにより、ゴンは暗黒大陸、幽介は魔界という新たな世界へと誘われていくという流れも全く同様のストーリー展開です。

 

 

 

救いを与えられた幽助=ゴン(ジン):


これについても少し。

上で仙水の心の在り方を救済したのが、王の最期だと述べています。では、幽助は?幽介を救済するにはどうすればよいのでしょうか?

 

最終回付近の幽助は、師匠が死に(幻海)、苦楽をともにした友人は戦いをやめ(桑原)、明確な目標がなく、父親はしっかりしていないし、蛍子の存在により人間界に縛られています。

 

これをふまえると、ゴンというキャラクターは、幽介を不安定にさせている要素を全て消化しているのです。

 

ゴンには帰るべき家があり、2つの世界で揺れ動くような彼女は今のところいないし、立派な父がいて、まだまだ超えられそうもない師匠がいて(ビスケ)、更にライバルがいて(ヒソカ)、同じ年で才能豊かな友人がいる(キルア)わけです。

 

だからゴンは幽助に比べ安定していると同時に、人間味がないとよく評されるのでしょう…

 


今後の展開予想:

 

ということで、まるで最終回のような勢いで父親と再会したゴンですが、これがオマージュと考えると、これから舞台は魔界暗黒大陸へと突入します。冨樫先生は少なくとも幽白最大の消化不良である「魔界トーナメント戦」編はハンターで消化してくれるつもりなのではないかと思います。

その他の予想としては、ジンは死ぬ、レオリオがアルカに恋をする、でどうでしょう?

 (ジンはある意味では救済された幽介なので、もしかしたら死なないかもしれませんが)

 (追記:むしろ死ぬとしたら暗黒大陸にいるという「ドン フリークス」が有力ですね。幽遊白書の設定を踏襲するならばゴンの出生は暗黒大陸に関わっていると思われるので、このドンフ リークスこそが「雷ゼン」かもしれません。むしろゴンさん登場も、暗黒大陸の不思議な力と、ドン フリークスの存在が関わっているという展開もあり得ますね。)

 


あと最後に「なぜキルアなのか?」について書こうと思います。

実はこれが一番書きたかった事なので、よければお付き合いください。