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2.5じげん

漫画 小説 映画 オタク

辻村深月「スロウハイツの神様」(ネタバレ)

私はこの人の小説を読むと、「同世代だな」と強く感じます。更に言えば、同世代オタク女子。きっとこの人とは、同じ漫画や本を読んで育ったのだろうなと思います。そして同世代だからこの人の小説を面白いと感じるのかもしれません。例えば辻村さんがインタビューで価値観が変わった漫画に「東京BABYLON」をあげていて、超わかるんです。


同じ世代に生きた人って、やっぱり同じ感性をもっていますよね。たとえ違う地域に住んでいたとしても、同じ漫画やテレビ番組や歌手に夢中になり、同じ教育を受け、同じ事件をニュースで見て、同じような遊びをして育ったのだから。なので例えば、辻村深月さんにとって重要なテーマである「イジメ」に関する理解は、とても共感できます。この人と私は同じイジメを見て育ったと思う。クラスの中で「上」と「下」があって、ささいなことがきっかけで始まって、いじめる側もいじめられる側もおどろくほど卑屈で計算高い感情を持っていて…などなど、同世代のリアルさがあるなと思います。この人の書く主要な登場人物は一見ありがちなパターンにはまった、非現実的に恵まれた漫画的キャラクターなのですが(イケメン・生徒会長・ちょっと不良な親友・学校一の秀才etc..)実はネチネチして、とても現実的なイジメの空気の中にいる人が多いんです。そして本人も、それが偶像だとわかっている描写もある。(例えばある話では、ずっと「かわいい女の子」として書かれていた子が、実は自分では「化粧がうまいだけで本当の美人ではない」と思い、コンプレックスを抱えている描写がある。「スロウハイツの神様」も、一見クリエーター集団の同居というハチクロ的華やかな描写ではじまるけれども、部外者に「オタク集団、気持ちが悪い」と言われる描写がある。)その書き方に同世代的な妄想や、達観を感じたりもするわけです。結局この人が書きたいのはそのネチネチした感情で、各キャラクターに与えられた漫画的個性は虚構であり、作者が用意した救いなのではないかと思っています。


辻村さんの話で一番好きなのは、この「スロウハイツの神様」かもしれません。

この話は「コーちゃん」と呼ばれるライトノベル作家を中心に話が進みます。「コーちゃん」は中高生(のおそらくオタク)にとても人気があるのですが、その小説に憧れた少年が人を殺してしまったことから世間にバッシングを受けてしまい、小説が書けなくなってしまいます。

おそらく同世代オタクならば、いや、オタクでなくても、この話をよんだとき心の中で自らの「コーちゃん」を思い出すのではないでしょうか。グロテスクだったり、妄想的だから、親や健全な友達には理解されず、でも大好きでこっそり読んでいたあの小説や漫画。私が真っ先に思い出したのは「バトルロワイヤル」でした。とても面白かったのに、親からは読むなと言われ、世間的な評価も低いのが当時中学生だった自分には全くわかりませんでした。(まぁ今では少しわかりますが・・)とにかく当時の自分にとってはとても特別な小説だったんです。

さて、この「スロウハイツの神様」の「コーちゃん」は、ある女の子からもらった手紙がきっかけで再び小説を書けるようになります。かいつまんでいうと「コーちゃんの小説によって死んでしまった人がいるけれど、救われた人はもっといる」という手紙です。この話のテーマはおそらくここです。私は漫画や本に何度も救われてきました。漫画やゲームの及ぼす悪影響について言及され始めたのは、おそらく私達の世代からではないでしょうか。

「漫画や小説は悪影響を確かに及ぼすかもしれない、でもそれ以上に、その存在に命を救われた人はたくさんいる」…このメッセージに、私はとても共感するのです。


ちなみに最近の著書はあまり追いかけていません。大人になって少し毒気がぬけちゃったなという印象…昔の小説は必ず読者に対して「嘘」をいれていたのだけど、今でもいれているんだろうか?

 


追記)久々に「冷たい校舎の~」を読んで本当によくできた話だと思った。結末を分かった上で大人になってから読むと、実は主人公達リア充軍団の「無意識の悪意」を弾劾した話なのか?と思う。昔よんだときは「被害者」と「加害者」を入れ替わらせた彼女に嫌な気持ちを覚えたけど、なんだか彼女の視点で読むと実は彼らも明確に「加害者」だったんだなと思った。

 

再追記)コメントいただいた、通りすがりの方、ありがとうございました…!恐ろしいミスに頭をかかえました。最近の著書は、自分が家庭をもってからおいかけてみようかと思います。

 

 

 

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

 

 

パレード 吉田修一

漫画は何回でも読み返すけれど、本はほとんど読み返さない。
しかし私は、吉田修一の「パレード」という作品をもう4回位読んでいる。

この作品の何がそんなに面白いのか、自分でもよくわからない。
あとがきでもふれられているけれど、この作品にはある「秘密」が隠されている。1回目読んだときはなんて気持ちが悪い話かと思い、本棚の隅に追いやった。しかしある日、その秘密を知った上でふと読み返したくなり、読んでみた。そこまで気持ち悪いとは感じなくなっていた。3回目は純粋に登場人物の関係性を読み込みたくて読んだ。だんだん読んでいてほのぼのとした気持ちになってきた。私はこの人たちの生活にとても憧れている。

 

パレード (幻冬舎文庫)

パレード (幻冬舎文庫)

 

 

ハンターハンターは幽遊白書のオマージュなのか その3

その3です

 

ハンターハンター幽遊白書のオマージュとして考えたとき、最大の変更点はなんでしょうか?それは「キルア」の存在です。

最後にこの「なぜキルアなのか?」という謎について考察し、終わりたいと思います。

 

 

なぜキルアなのか?:

これは実はハンター連載当初からぼんやり思っていた疑問でした。

「なぜキルアなんだろう…」と。

メインの4人組の構成があまりに似ており、連載当初は幽遊白書に構成が似ていると騒がれていましたが、もうあまり似ていると言われることはなくなりましたよね。それは「キルア」の存在によるものが多いと思います。幽遊白書ハンターハンターでは「飛影=キルア」の役割が大きく異なります。

 


ゴンの親友であるキルアはハンターハンターにおいて第二の主人公と言っても過言ではありません。しかし幽遊白書におけるキルアは「飛影」、どちらかといえば蔵馬とセットになることが多い存在であり、あくまで「主人公グループの1員」という存在でした。幽遊白書の4人グループを踏襲したことを考えると、ゴンの親友はレオリオ=桑原であるべきです。ところがそのポジションはキルア=飛影になった。これはかなり大きな変更点です。ではこの変更で、一体幽遊白書の何を消化しようとしたのでしょうか?

 

それはものすごく単純に考えると、「飛影というキャラクター」ではないでしょうか。飛影というキャラクターが消化不良であり、描ききれなかったと考えられたため、ハンターハンターではキルアというキャラクターに生まれかわり、第二の主役というポジションに配置し、きちんと描かれようとしているのではないでしょうか。

 


飛影というキャラクター:
さて、この飛影というキャラクターにはある明確な設定が1つあります。それは彼が「子供である」…という設定です。
妖怪としては蔵馬やその他の登場する妖怪より明確に年下の設定だし、双子の雪菜もビジュアルは子供です(これは他の雪女のビジュアルと比べると明確です)飛影は「チビ」と言われても怒りません、これから大人になり背が伸びるはずだからです。


…ということで、実は、飛影は人間の年齢にしたら幽助と同じ年か少し下くらいの設定なのではないかと考えられます、つまり「少年」です。その若さで蔵馬や躯とわたりあっていたということは、実は幽助同様すごい才能の持ち主なわけです。作中で一番精神的な成長をみせているのも飛影だし、飛影は、よくよく考えてみると幽助に年齢も才能も精神面も近い「友人」として最もふさわしい存在なわけです。

幽遊白書における幽助の精神的な孤独を埋めることができたのは実は飛影だったのかもしれない」という要素を消化したのが「キルア」なのではないでしょうか?

 


アルカと雪菜:

飛影といえば双子の妹の雪菜です。

ということで、キルアにも溺愛する妹アルカが登場します。言及はされていないけど、この2人は双子なのではないかと思っています。31巻の表紙がわかりやすいですが、まるでキルアとアルカは、実は飛影と雪菜をあべこべにしたかのようなビジュアルをしています。

さて、詳しくは割愛しますが、つかず離れずな関係性の飛影と雪菜とは違い、キルアはアルカの手を取り一緒に生きていく決意をしたわけです。これも消化点なんですかね。

 


まとめ:

長々と書きましたがこれはもちろん一つの妄想です。こうやって妄想をかきたてられる冨樫先生の漫画が今も昔も大好きです。今回妄想の中ですら、冨樫先生、ちゃんと幽助や飛影や幽白のキャラクターのことが大切だったんだなと思いほっこりしました。ゆっくりでもいいので、これからもずっと漫画を描き続けてほしいです。

もしも長々と読んでくださった方いらっしゃいましたらありがとうございました。

 

 

 

 

 

幽遊白書 全19巻セット (ジャンプ コミックス)

幽遊白書 全19巻セット (ジャンプ コミックス)

 

 

 

 

ハンターハンターは幽遊白書のオマージュなのか 2 

その2です

 

ハンターハンター幽遊白書のオマージュとして考えたとき、そのストーリー展開がある程度似ていることに気付かされます。キャラクターもいくらでも類似点があります(レオリオ=桑原が医者を目指しているとかクラピカ=蔵馬が第2形態があるとか師匠であるビスケ=玄海が二面性があるとか)。

何編は何編と呼応している…とこじつければ色々こじつくのだけど、ストーリーとして1番明確なオマージュが蟲編であると考えられるのです。

 


蟲編とは仙水編へのオマージュである:

蟲編とはまさに仙水編へのオマージュなのではないではないでしょうか?

連載時は蟲編のような大風呂敷をどうして広げてしまったのかと疑問でしたが、仙水編へのオマージュであると考えたら納得です。

仙水編とは幽白における設定変更のターニングポイントであり、消化しなくてはならないパーツの1つであると考えられます。蟲編ははじめざるを得ないエピソードだったわけです。仙水編も「蟲寄市」からすべてが始まります。

 

蟲編と仙水編の大きな共通点:

 

さて、何を言っているんだとお思いの方も多いでしょうが、蟲編と仙水編には大きな共通点が2つあります。

 

まずはラストシーン、「王とコムギ」の美しい最後はまさに「仙水と樹」の最後と同じ構造です。主人公に倒される訳ではなく、彼らは「病」で、「閉じられた空間の中」で「自分とは違う生き物」と2人きりで死んでいきます。

 

ただ、王は仙水はよりも幸せの中で死んでいきます。

王は「なぜ生まれたのか」と疑問に思いながらも、最後の瞬間に「この瞬間のために生まれてきたのだ」と悟ります。冨樫先生は「なぜ人間に生まれたのか」と感じ「次は魔族に生まれますように」と思いながら死んでいった仙水にも、王のような気付きの中で最後を迎えてほしかったのでしょうか。

 

 

そして「主人公が髪が伸び、劇的にパワーアップすること」も大きな共通点です。
通称「ゴンさん(髪が伸び劇的に強くなったゴンに対するネット上での通称)」の登場も蟲編の謎の1つでした。正直、あまりにも唐突すぎて。ですがこの蟲編が仙水編のオマージュと考えると納得です。

仙水編で幽介は一度瀕死となり、「魔族」に目覚め、髪が伸びた状態で強くなり復活します。これは幽白最大のストーリー展開だっただけに、ハンターもこれを踏襲しないわけにはいかなかったのでしょう。

通称ゴンさんの登場は、幽介の魔族覚醒と呼応しているわけです。

 

そして髪が伸び、ひん死の状態になることが、一種の通過儀礼となり、その次のシリーズでで2人は「父親」との再会を果たします。その父親によって新たな世界へと誘われていくという流れも全く同様のストーリー展開です。

 

 

 

救いを与えられた幽助=ゴン(ジン):
これについても少し。
幽助を救済するにはどうすればよかったのか?という意図で作成されたのが「ゴン」ではないでしょうか?最終回付近の幽助は、師匠が死に(幻海)、苦楽をともにした友人は戦いをやめ(桑原)、明確な目標がなく、父親はしっかりしていないし、蛍子の存在により人間界に縛られています。ゴンの周辺と比べるとその違いは明らかです。ゴンには帰るべき家があり、2つの世界で揺れ動くような彼女は今のところいないし、立派な父がいて、まだまだ超えられそうもない師匠がいて(ビスケ)、更にライバルがいて(ヒソカ)、同じ年で才能豊かな友人がいる(キルア)わけです。だからゴンは幽助に比べ安定していると同時に、人間味がないとよく評されるのでしょう…

 


今後の展開予想:

ということで、まるで最終回のような勢いで父親と再会したゴンですが、これがオマージュと考えると、これから舞台は魔界暗黒大陸へと突入します。冨樫先生は少なくとも幽白最大の消化不良である「魔界トーナメント戦」編はハンターで消化してくれるつもりなのではないかと思います。

その他の予想としては、ジンは死ぬ、レオリオがアルカに恋をする、でどうでしょう?

 (ジンはある意味では救済された幽介なので、もしかしたら死なないかもしれませんが)

 (追記:むしろ死ぬとしたら暗黒大陸にいるという「ドン•フリークス」が有力ですね。幽遊白書の設定を踏襲するならばゴンの出生は暗黒大陸に関わっていると思われるので、このドン•フリークスこそが「雷ゼン」かもしれません。むしろゴンさん登場も、暗黒大陸の不思議な力が関わっているという展開もあり得ますね。)

 


あと最後に「なぜキルアなのか?」について書こうと思います。

実はこれが一番書きたかった事なので、よければお付き合いください。

ハンターハンターは幽遊白書のオマージュなのか その1

はじめに:

この記事は、別のブログで一度書いた記事を再編集したものです。そちらのブログにはそぐわないのでこのたび移動いたしました。ハンターが連載再開した2014年頃書いたものです。

ハンターハンターを読んでいて感じたぼんやりとした疑問(なぜ冨樫は蟲編を始めてしまったのか?)(ゴンさんってどうして登場したんだ?)(なぜ父親との再会で連載を終了させなかったのか?)と、幽白におけるある設定へのかねてからの想いがふと一致したので、語ってみました。

 

 

問題提起:

これは表題の通り「ハンターハンターとは幽遊白書のオマージュ、あるいはパロディである」という仮説の話しです。とにかく似ていると言われるこの両作品ですが、「似ている」のではなく、ハンターハンターとは冨樫先生にとって幽遊白書のオマージュ、あるいはパロディではないのか?という考察です。

横文字を使わずに言うと、幽遊白書を書き直したのがハンターハンターなのではないか?ってことです。

 

なぜオマージュなのか?:


まず始めに、幽遊白書とはとても切ない話です。連載当初は「主人公が別の世界で様々な経験をし、成長して元の世界に戻る」という王道の物語の構成をとっていましたが、物語中盤から主人公の幽介は別の世界のほうが面白くなってしまい、現実世界に物足りなさを感じてしまいます。

そんな幽介に作者が用意した救いは「実は幽介は元々別の世界の住民だった」というものです。幽介は徐々に別の世界と現実の世界をゴチャゴチャにしていきます。物語の最後は現実の世界で生きていますが、おそらく幽介はいつか別世界の方へ旅立ってしまうのでしょう。
最終回の後を思うとこれほど切ない話はありません。その切なさも魅力の1つなのでしょうが。

 

さて、幽遊白書は連載途中から作者の精神状態と絡みあい、話も絵もグチャグチャになっていきます、特に最後は無理矢理終わらしたのが明確です。


完璧主義の冨樫先生にとっては、無理矢理作品を収束させたことは心の残りだったのではないでしょうか?

そう、ハンターハンターとはこの消化不良で終わってしまった幽遊白書で消化しきれなかった要素を消化し、きちんと終わらせるために始まった作品なのではないでしょうか?

そう思った一つのきっかけは「四人組」です。

連載当初から言われていましたが、ゴンは幽介、キルアは飛影、クラピカは蔵馬、レオリオは桑原によく似ています。似過ぎです。

漫画として全く違うチームを用意することはできたはずなので、これはあえて前連載作と同じ構成のチームを用意したのではないでしょうか?そう、似ているのではなく、似せているのではないでしょうか?(尚、作者の力不足、想像力の限界によって似たようなチームになったのではないかという意見があるようですが、冨樫先生に限ってありえません。いかようにも、全く違うチームを作る事ができたはずです。ここは冨樫信者丸出しですが、確信しています。)

 

…とはいえ、

ハンターハンターとは、幽遊白書へのオマージュであるからといって、ハンターがすべて幽遊白書をなぞっているという意味でとらえているわけではありません。

ハンターという新しい世界でしかできないオリジナルのエピソードもありますし、「ヒソカ」や「幻影旅団」などはハンターでのオリジナルパーツだと考えられます。

ある程度作者が重要と考える幽遊白書のパーツを使用し、

1:消化不良だったエピソードや連載長期化に伴い発生した後付けの要素を消化する、

2:前作において目的を見失ったまま最終回を迎えた主人公に目的と救いを与える、

3:「ちゃんと最終回を迎える」

 

…というような目的があるのではないかと思っています。

 

 

 

 

その2に続きます。

 

ハンターハンター幽遊白書のオマージュであると確信した、「蟲編=仙水編である」という説について語ります。

 

 

村上春樹と夏目漱石

*途中で村上春樹氏、夏目漱石氏の小説の内容に触れています。お気をつけ下さい。

 

 

 

誰もそんなこと言っているのを聞いた事がないけれど、私は村上春樹と、夏目漱石の小説はとても似ていると思っている。

 

 

どうしてそう思ったか。高校生の頃、同時期に「ノルウェイの森」と「こころ」を読んだ私は、いたって自然に「この2つはまったく同じ事を書いているではないか」と思ったのだ。

 

 

さて、その後私はたくさんの村上春樹の作品と夏目漱石の作品を読み、

なぜ高校生であった当時、その2冊が同じ物と感じたのかのを考えた。
 

まあ簡単に考えるとその「設定」である。

 

一つが主人公が「高等遊民」であること。

(村上さんの主人公は働いてはいるが、いわゆる普通のサラリーマンとは言えず、時間とお金を自分の自由に使える人が多い)

 

もう一つが、「三角関係」と「自殺」が物語にちりばめられていることだ。

 

 

「設定」だけか、と思われるかもしれないが、

 村上氏の小説は、デビュー作からほぼすべての小説において「三角関係」があり「女性が自殺」する。「三角関係」なんて小説ではよくある設定ではないかとお思いの方、「ほぼすべて」ですよ?これは偶然ではなく、村上氏にとっての小説を書く上での縛りというか、作者にとって毎回消化しなければならないテーマであるのだと理解している。

 

で、三角関係といえば、夏目漱石である。彼の小説には三角関係や不倫が繰り返し登場し、「三角関係三部作」と言えるものまである。(「こころ」「それから」「門」)

 

そう、2人とも、軽い文体で執拗に、何作にも渡り、時に登場人物を変えながら、何度も何度もこの「三角関係」をテーマを選んでいる。ここまで執拗に取り組んでいる設定が、同一であることは果たして偶然なのだろうか?

偶然であろうと、偶然でなかろうと、「自分の中にわだかまりを残した、小説を書くにいたる初期衝動」が、この2人は似ているような気がするのだ。

そして文体、読んだ感触、生活の習慣が。

 

 

 

ところが私は先日びっくりな記事を発見した。 

 

 

 

www.welluneednt.com

 

 

サイト自体は3月末まで公開だそうなので、ブックマークも消えてしまうのだろうか?(追記:消えました)

 

私が驚いた記事の内容をかいつまむと、このサイトは作家の村上春樹氏がランダムで読者からの質問に答えるサイトで、「こころ」の良さを伝えたいという高校の国語教師に対し、村上春樹氏が、夏目漱石氏の「こころ」の良さは「よくわからない」と答えたのだ。

 

私はいつの日か村上氏の夏目漱石評が読みたいと思っていたのだが、こんなにあっさり否定されるとはびっくりした。でもなんとなく諦めきれない。村上先生、本当ですか?

 

それから (新潮文庫)

それから (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

ET 20th anniversary とトトロ

大人になったら見方が変わる映画ってたくさんあると思うのだけど、やっぱりその中でも「ET」と「となりのトトロ」は格別だと思うんだ。

 

 

ETも、トトロも、自分がエリオットやメイ位の歳の頃から見始めて、今28歳、一体何回この映画を見たのだろうか?見るたびに、感動のポイントや感情移入する対象が変わって、自分の成長をよくも悪くも気付かせてくれる。もう映画の中の両親の年に近づく今見ると、親がトトロを見る度「かわいそう」とつぶやいていたのを思い出す。子供の頃は何言っているんだと思っていたけれど、最近はよくわかる。

 

この映画、子供達がとてもかわいそうなのだ。トトロもETも結局は片親の不在が物語の引き金になっている。

大人になってからみると、トトロが現実にいるとは思えなくなってくる。サツキもメイも、母のいない寂しさ故にトトロという幻想が見えるようになってしまったんだな…と思う。

そして今回ETの20th anniversary editionを見たのだが、昔は赤ん坊や、犬のような存在として見ていたが、改めてみるとETの態度は老人のようだし、かなり知性が高い存在として設定されていることに気付かされた。ETエリオットや兄妹達を観察し、子供であることに始めから気付き、取り巻く状況(母が不安定になっていること、父親がいないこと)も、おそらく理解している。そういう撮り方をしていたことに今更気付かされた。

 

サツキ、メイ、エリオットに足りないのは「親戚のおじさん」だ。利害に関係なく、ただ甘やかして一緒に遊んでくれるおじさん。その存在がトトロでありETなのだと思う。

 

「トトロとは結局妄想なのか」と思うことがあるなんて、子供の頃は想像もしていなかった、サツキやメイをかわいそうだと思ってしまった時点で、私にはもう永久にトトロは見えないだろう。でも子供の頃、サツキやメイがうらやましかったし、いつか自分もトトロと出会えると確信していた気持ちは忘れたくはないと思う。